「私は一生、あのタイプの自転車に乗ることがないんだな」
子ども乗せ電動アシスト自転車のことです。
自分よりはるかに若いお母さんが前にはバスケットとチャイルドシート、後ろにもチャイルドシートの付いた子ども乗せ電動自転車に乗っている——。
かたや私はバスケットもなければ、誰かを乗せて運ぶシートも付いていない、完全にひとり乗りの非電動自転車——。
ファミリー層が多く住んでいる豊中市では、子ども乗せ電動自転車を目にする機会が多くあります。
先日、街を愛車のAdventure 2で走っているとき、そんな感想がふと浮かんできたのです。なぜ脳内でこれが言語化されたのだろうと不思議に思い、考えました。
私は20代後半のとき、子どもを持たない人生を送ろうと決めました。
結婚してからも、周囲に子どもを持つ人が増えてからも、影響を受けることなく、迷いや葛藤もありませんでした。
子どもを持ち、育てることに対する興味関心や意欲がなかったからです。
以来「持たない選択」は自分にとっては大正解だったとも考えています。
「ひとり」という最小単位+「ふたり」というひとつ大きな単位で生きながら、身軽な生活や在り方に満足してもいます。
それなのに「私は一生、あのタイプの自転車に乗ることがないんだな」が出てきたため、自分と対話してみました。
私1「私はあのタイプの自転車に乗らないまま死んでいく」
私2「うん。そこにはどういう感情があるの? 本心としては後悔している?」
私1「後悔はないよ。持たないことが自分には合っているから」
私2「だよね。その言葉の裏には何があるんだろうね? 何か気づきでもあったのか?」
私1「うーん、子どもを持たない人生が決定的になったと確信した感覚があった」
側頭部に増えていく白髪に老いを感じながら、高齢出産と定義される年齢もとうに過ぎ、プレ更年期の時期に片脚をつっこもうとしている38歳。
「私は“こっちの道”を歩いてきたし、これからも歩いていく」「“そっちの道”に行くことは今世ではまずないな」
10年後、20年後になると、持たない選択をしたことを憂いているかもしれません。未来の自分の感情はわからない。
少なくとも今は選択に満足しています。
パートナーと清々しい緑地公園を走り抜けて、少し遠くへ出かけるとき。
あるいは、猫を入れたリュックを背負って走るとき、軽いなりのささやかな重さを背中で受け止めながら、私は自分が選んだ人生がそれなりに好きだなあと感じもするのです。
Text / 池田園子
▼「子どもを持たない生き方」に関する本▼