「堕ち期」との付き合い方。

恵まれた環境で楽しく生きているはずなのに、今ここにいることを苦しく感じることがあります。

3〜4ヶ月に一度ほどの頻度で、そういった「堕ち期」がやってきます。苦しみの要素が凝縮された硬い石を抱えている感覚です。

普段は「今」を見つめて生きているのですが、そのときは違うモードになっています。

(いわゆる「メンヘラ」に分類されるのかもしれません。そうは見せていないつもりでしたが、依頼されてもいない文章を毎日自発的に書き続ける行為は、自分のメンタルを保つ意味があるのかもしれないと、ふと思いました)

「なんか苦しい、しんどい」という感情は、将来に対する漠然とした不安から「ただ生きる」だけでかかる膨大なコストを想起させます。

不安がより大きく膨らんでいき、結果的に「長く生きていたくはない」「“太く、短く”がいい」につながるのです。

先日そんな話をある人にしたところ、「世界に対する興味がないからでは?」と指摘されたのでした。

長く生きていれば、今よりさらに技術が発達し、現在では想像もつかないモノやサービスとの出会いもあると。

確かにその通りです。たとえば、私は2009年頃、Twitter(現X)を使い始めました。

その10年前、私はTwitterの登場なんてつゆほども想像していません。

当時、Twitterがバーチャルでありながら、リアルを拡張してくれる居場所として、使うのが楽しくて、発明されたことに大いに感謝したものです。

おかげでその頃は新しい人、モノ、コトとの出会いが豊富にできていましたし、その後キーパーソンとなった人もTwitter経由でつながりを持つケースが多数ありました。

その後登場して自分の生活を変えたモノとして、iPhoneやAmazon、ChatGPTなど挙げるとキリがありません。

先の人は「世界を刷新するレベルの新しい何かと出会う欲」が高い人。だからこそ「できるだけ長く生きていたい」とも話していました。

私は「長く生きたい」発想をまだ持つには至りませんが、その人と話して「まずは明日どう生きるか、を考えてみたら」との一言で、苦しみの石がわずかに小さくなった気がしました。

今ここにいるのを苦しく感じたときは、将来という何年後か、何十年後かも定めていない「先」を曖昧に想像するのはやめて、「明日」を考える習慣を持ちたいと思います。

Text / 池田園子