「クズなところ、ある? ないでしょ。知り合って10年経つけど、その子ちゃんのクズなところ見たことない」
ある女性からそんなふうに言われたとき、「クズなところ、あるよ(笑)。見せないようにしてるだけ」と即答しました。
人は聖人君子ではない、というのが私の考えです。一方で、全員が全員クズかというと、それは分かりません。
自分を客観視すると、私はクズ要素がなさそうな人に見えていると思います。でも、クズだと自覚している部分はあるので、「隠れクズ野郎」と言ってもいいでしょう。
ただ、クズと一口に言ってもクズ度合いもさまざまで、どんな言動が“クズゾーン”に入ってくるのか、その判断基準も人それぞれです。
【関連本】『クズ道(ちょいズル人生術)』
犯罪や誰かを負傷させるような悪質性の高いクズを除けば、そのほかのクズはそれぞれの感性や器、人生経験をもって、クズなのか否かふるいにかけられるのではないでしょうか。
明らかにブラックなクズ、ホワイト寄りのクズもあるわけですが、私のクズレベルはグレーゾーンにあるかなと思っています。
世間のモノの見方と自分の物差しを両方バランスよく踏まえると、「一部の人間は私をクズだと批判するだろう。でも、彼らにわざわざ伝える場もなければ、知ってもらう必要もない。一生他言しなければ誰も困らないし、不快な気持ちにならない」という類のクズ。
自称・クズな要素はあえて表立って見せなければいいのです。見せてもいいことにはなりません。
しかし、なぜ「クズだな」と自覚しても、軽いクズとして行動する道を選ぶのか。それは興味関心を優先してしまうから。ある種の欲求ともいえます。
クズ行為を自覚的にするなら、誰も何も傷つけないし、攻撃しないこと。代わりに「守る」覚悟が必要なのだと思います。
Text / 池田園子