『時々、私は考える』を観ての学び

皆さんは洋画を観る前に、原題をチェックする習慣がありますか?

私はありませんでしたが、先日映画『時々、私は考える』を観にいってから、観る前に原題とその意味に触れておこうと決めました。

『時々、私は考える』は、人付き合いが苦手で不器用な女性・フランが、転職してきたばかりの同僚・ロバートと仲良くなり、静かな日常にちょっとしたキラキラが生まれて——といったストーリーです。

ラブストーリーではありません。フランの家と会社を往復する淡々とした日常(でも、それがいいのです。日常やルーティンこそ愛すべき時間)、同僚たちのさして意味のない雑談(軽快でテンポのいいやりとりが小気味よい)、ロバートとのデート、そしてフランの空想で主には構成されています。

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カメラワークがどこか馴染みのあるモノながら、上手だなと思わされます。視点に違和感がないのです。

舞台はポートランドのあるオレゴン州。派手なところのない静かな、いわゆる田舎町ながらロケーションがきれいです。

そして、米国の地方都市だからこそ規模感が違って、ひとり暮らしの部屋ながらもファミリー向け物件並みに広く、部屋数もたくさんあって、日本では見られない建築家の個性を感じさせるおしゃれな内観が魅力です。

社内で恋愛が始まる予感というシチュエーションは、私はもう13年前に縁のなくなった世界ゆえ、ちょっとワクワクもしました。

観たあとは何かしら感想を語りたくなる作品です。気になる方は観にいってほしいと思います。

冒頭の話に戻りますが、本作の原題は『時々、私は死ぬことについて考える』でした。

それを知らずに行ったので、観ていて「なんでかな?」と不思議に感じるシーンもちらほらありました。

邦訳されるとタイトルのニュアンスも変わりますから、原題を知った上で行くことで特定のシーンで立ち止まることもなく、また違った感想を持つこともできそうだと感じています。

Text / 池田園子