「在宅での緩和医療」を選択肢として知ってほしい

「在宅医療」をご存知だろうか。通院が難しくなった患者さんが自宅(または施設)で医療を受けることを指す。簡単に言うと、それが在宅医療だ。私は医師として15年以上、医療で生計を立ててきたが、在宅医療というものの本質を深く理解していなかった。

初めて在宅医療と関わったのは、医師になる前、学生時代の実習でのことだ。数日間、在宅医療に同行した際に抱いた感想は、「採血やレントゲンもしない在宅医療は本当に医療と呼べるのか?」だった。患者は大きな病院に通える体力がない人たちであり、在宅での医療提供が必要であることは理解できた。しかし、検査がリアルタイムでできない現場にいたことで、当時の私には「これが本当に医療なのか」という考えが消えることはなかった。

時が経ち、私は医師として働き始め、東北の震災が発生した。震災から数週間が経過した頃、被災地支援のために派遣されることになった。当時の私は総合病院の総合内科医であり、検査よりも問診や診察の重要性を説いていた。先輩から受け継いだ教えを後輩たちに伝える日々だったが、500人が入院できる病院の第一番隊に任命されたときには不安で体が硬直したのを覚えている。被災地に赴いた際も心臓はバクバクだった。普段は「検査の前に診察を」と指導していた自分が、ほとんど検査ができない状況に置かれ、動揺していたのだ。「本当に検査できないじゃん」と心の中で泣きながら診療していた。当時はまだ在宅医療との大きな違いに気づいていなかったが、今振り返れば、あの現場も在宅医療と大きな差はなかったのかもしれない。

それから時を経て、私は現在、在宅医として働いている。内科医としてできることは何も変わらない。やはり患者あるいはその家族から情報を集め、丁寧に診察し情報を集めていく。総合病院の医師時代と比べて異なるのは、慢性期疾患の患者が多いことや、末期がん患者への緩和医療が中心となる点だ。また、総合病院であれば緩和ケアは専任の医師に任せることが多いが、在宅では、患者が自宅にいる間、そのケアを担うのは私たち在宅医だ。もちろん、手に負えないと判断される場合は、地域の緩和ケア病棟やホスピスとの連携も可能だ。

あるとき、末期がんの患者さんを看取ることがあった。在宅医になって間もない頃のことで、緩和ケアに関しては経験が浅い私は、熟練の先輩医師に相談しながら診療を行っていた。

多くのがん患者はホスピスを選び、自宅での看取りを選ぶことは少ない。患者や家族にとって、自宅で亡くなるイメージが湧かないのだろう。私自身も強く勧める自信はまだなかった。不安の中で過ごすならばホスピスなど病院で最期を看取ってもらいたい、と考える患者は多い。病院であれば点滴や酸素、機材などが揃っているから自宅よりも安心、という感覚なのだろう。

在宅医療を提供していて、あることに気づく。総合病院で働いていたときより、患者さんの表情が明るい。在宅で過ごすがん患者さんの表情も明るいのだ。総合病院で数多くの患者たちを看取ってきた自分の感覚で、バイアス(偏り)がかかっているのかなとはじめは思っていた。ただ、やはり在宅医療を経験すればするほど、患者たちの表情は明るい。家族に囲まれているからだろうか、慣れ親しんだ場所で過ごしているからだろうか。

そのがん患者さんもそうだった。自宅で穏やかに過ごし、家族の献身的な看病も手伝ってか、亡くなる数日前まで食事を取り、入浴もできていた。寝室のベッドに張り付いて身動きもできず、食事もとれず身体も心も病んで死にゆく、を想像している人は多いのではなかろうか。もちろん食事が取れていたとはいえ、食べていた量は以前とは違うし、生活のすべてが自分の思い通りにいくわけではない。ただ、亡くなる数日前まで、人としての尊厳をほぼほぼ保ちながら最期を迎えることができたのだ。

患者の家族や看護師は「先生のおかげだ」と感謝してくれたが、私ができたことは少なかったと思う。むしろ家族や訪問看護師、そしてその他のスタッフが、患者とともに過ごした時間こそが、穏やかな最期を実現できたのだと感じた。この経験は私の中に大きな変化をもたらした。

「死に付加価値を」というと、大げさな表現に感じるかもしれないが、在宅医療を通じて、少なくとも「人はひとりで生まれ、ひとりで旅立つ」という考え方が変わった。人はつながって、喜びや苦しみを分かち合うことができる。適切な緩和医療を提供できれば、人は亡くなる数日前まで、時間にすれば死の30~40時間前まで穏やかにいられる。死への不安に駆られて、苦しみに意識をフォーカスされ続けるようなことなく、穏やかな状態で自宅で自我を保てるのだ。患者がそのように過ごせたことを目の当たりにして、言葉にできない貢献感を得た。

人は誰もがいつか死に向き合うこととなる。しかし、死を意識して生きることは容易ではない。自分や家族、パートナーがどのように死を迎えるか、どのように死ぬことが幸せなのか。けれども、もし穏やかに、慣れ親しんだ場所で、社会とのつながりを感じながら、苦しみを支えられて死を迎えることができるなら、それには大きな価値があるのではないだろうか。このような選択肢があることを、まずは知ってほしい。

Text / Dr.Taro

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