とあるオンライン会議でのこと。私の部屋にいる猫がカメラに映り込みました。よく見ないとわからないほど小さく、鳴くこともなく、ただ静かに散策していただけです。すると、ミーティング相手が笑いながら、「自分は猫アレルギーだから猫が嫌い。視界に入るのも耐えられない。映さないでほしい」といった趣旨の発言をしたのでした。
えっ、ちょっと待って(笑)。オンラインだし、そもそも猫アレルギーって、画面越しに何か影響を及ぼすものじゃないけど? 仮に、その人が猫アレルギーだと知っていたのに、猫がいることを伝えず家に招き、急に猫が飛び出してきたら「嫌だ! やめて!」となるのも理解できます。その場合は「騙したな、このヤロー!」と怒るのも分かります。しかし、今回はオンラインで画面に少し映っているだけ。会議の進行に支障があったわけでもありません。なのに、そんな過剰な反応を示す意味はあるのでしょうか。
猫は私が一緒に住んでいる、つまり大切にしている存在です。嫌いな生き物と好き好んで一緒に住む人は少数派でしょう。そんな私の仲間ともいえる存在を、わざわざ否定するような発言をする意図とは。猫の好き嫌い、アレルギーの有無は個人差がありますが、それを口にすることで何が生まれるのか。「嫌われたくて言うなら、どうぞ好きなだけ言ってみなさいな。あなたの悪口語彙レベルを見てあげようじゃないの」という感覚。でも、嫌われたい意図がないのなら、そんなこと言わなくてもいいんじゃないかと。
「相手が大切にしているかもしれない」と考えられる物事について、自分に直接の悪影響がないにもかかわらず、否定的な意見を言う必要はないはず。共感できなくても、ただスルーするだけでいい。心の中で「あ、猫だ。嫌い!」と思うだけでいい。まあ、つい口をついて出てしまう人、発言を我慢できない人もいるのか……。猫について嫌な記憶があるのかもしれません。
いろいろ想像を巡らせた上で、私はその人が猫アレルギーなのを前にも聞いて知っていたので「でしたねー」と反応して、猫をキャッチするため近づいて、画面の外に移動させました。「いい大人」である相手に注意することはしていません。相手が今後このようなコミュニケーションで損しようがどうなろうが、私には一切関係のないことですから。苛立ちもしない代わりに「あ、エッセイのネタになる」とひらめき、その瞬間一言メモを取るほどの余裕がありました。
自分自身も失言をしてしまうことはあるので偉そうなことは言えませんが、少なくとも相手の大事な何かに対してネガティブな言葉を直接投げかけることはありません。「何を言わないか、何を言うか」を改めて考えさせられる出来事でした。
Text / 池田園子
【関連本】『否定しない習慣』