自分で幸せをつくるということ

自分のことを「幸せが自己完結している人間」だと感じています。言い換えれば、ひとりでいても十分に幸せだということ。それは、自分自身で幸せな状況をつくり出す行動をし続けているからにほかなりません。仕事でもそのほかの関心ごとでも「やりたい」と思ったら気持ちに素直に動くこと、今目の前にいる人との時間を積極的に楽しむこと。こうした選択と行動の積み重ねが幸せの基盤となっています。

ただ、完全にひとりで生きているわけではありません。人とのつながりや出会いを楽しみ、そこに喜びを見出しているのも事実です。たとえば、パートナーとは4年ほど共に過ごしていて、この関係が人生に大きなプラスをもたらしていることは確実です。彼は私にいろいろな気づきのチャンス、新たな世界観を提示してくれるだけでなく、愛を注ぎ続けてくれます。私にとってパートナーとの時間は、すでに自分だけで100%満たされている幸せが増幅されたようなもの。150%あるいはそれ以上の充足感を感じています。

しかし、仮にパートナーとの別れが訪れたとしても、基本的に悲しくはありません。別れが死別という形であれば、大きな喪失感を味わうのは間違いなく、立ち直るのに相当の時間を要するでしょう。一方で、他に好きな人ができた、あるいは私への気持ちが薄れたという理由で関係が終わるなら、それは自然なことだから仕方がないと受け止めます。私にも50%原因がありますし、人の気持ちや考えが永遠に不変なんてことはないと分かっているからです。私も彼に対する気持ちや考えは、良くも悪くも日々刻々と変わっていますし。

単なる離別は「時が来た」だけです。そもそも、ひとりで100%幸せなわけですから、彼がいなくなったとしても、150%から100%の状態に戻るだけのこと。一緒にいることで感じていた追加の50%が消えるだけで、私の根本的な幸せは揺るがないのです。

では、なぜ今も彼と一緒にいるのか。それは「公にパートナーである」といえる対象のうち、彼が最愛の人だからです。「この人がいい」という唯一無二感があります。「穏やかで心地よい関係性である」など、ほかにも理由は挙げられますが、端的に言うと「この人がいい」に落ち着きます。そして、「大切にされる幸せ」と「大切にする幸せ」があるから。

一緒にいることで150%の幸せを感じられるなら、それは一緒にいる理由として十分です。けれども、もしこの関係が穏やかでなくなり、喧嘩が頻発し、相手を大切にしたくないと思うようになれば、いやいや一緒にいる必要はありません。そのときは自然とさようならを選ぶでしょう。不快な関係を続けるのは時間の無駄で、精神をすり減らすことにもつながります。

本来、自分単体の幸せは、自分でつくり出すものだという価値観があります。誰かにつくってもらうものではないし、誰の影響も受けません。自分のマインドと行動が100%。だからこそ、誰かに埋めてもらおうと無理をして不本意な関係を続けることはしません。

どうすれば自分が心地よく、充実した日々を送れるのか。そのために何が必要で、どんな行動をすればいいのかを理解し、実行することが、私にとっての「幸せ育て」です。

この考え方があるからこそ、ひとりでも幸せでいられるし、好きな人たちと一緒にいるときにはさらに大きな幸せを感じられるのだと思います。幸せを自分で育てる力があるからこそ、誰かと共に過ごす時間をより豊かにできるのではないかと感じています。

Text / 池田園子

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