皆さん「自分が誰かの話を聴いている様子(聞く、ではなく傾聴のほう)」を第三者視点で見たことはありますか?
私は先日、初めて自分のその姿を見て「真顔だし、リアクション薄いな」と愕然としました。講座やイベントでは話者が話しやすくなるようにと、前のほうの席に座ったときは、軽く頷いたり目を見たりするよう意識していたつもり、でした。
でも、「自分ではやっているつもり」というのは「全然やっていない」とほぼ同義なんですね。相手や周りには1ミリも伝わっていないのです。思い上がりが甚だしかったです。
講師の話を聴いている自分の姿を映像で確認すると、表情は硬く、頷きもしているのかしていないのか分からないほど小刻みで、講師に伝わるリアクションはまったくできていませんでした。
真剣に聞いている表情ですが、そんな真顔で聞かれたら講師は「この人、ずっと表情変わらないけど、楽しんでるのかな?」と思いますよね……。
今度は1対1で人の話を聴く自分の姿を動画で確認したときも同じでした。傾聴しているつもりでも、リアクションも頷きも小さく(先の講師に対するものよりは大きめでしたが)、口角は下がっていないものの、反応がしょぼかったのです。
一方で、コミュニケーションを40年教えている講師は、聴く姿勢のお手本でした。笑顔や口角の上げ方、頷きなど、多様な表現方法を用いて、相手の話に対し興味を持って聴いていると伝えるものでした。
聴くテクニックを超えた、心を開いて相手と向き合う態度そのもの。傾聴とは読んで字の如く、相手に心と身体を向けて向き合うことなのです。
「コミュニケーション教育協会」が提供するこの講座(私が受講したのは3級)で、私は「問題なくできている」と勝手に自信を持っていたことが、実際には「できていなかった」という現実を突きつけられたほか、さまざまな気づきがありました。←については、また後日書きます。
人は大人になるほど、注意されたり、怒られたりする機会がなくなり、これまで築いてきたモノを殻のように纏い、硬直化していくのでしょう。
私は38歳のいい歳の大人であり、社会に出て15年経っていますが、コミュニケーションにおける成長が止まっていたなとも思いました。
「これまで、そして今も仕事をしていて、いろいろな対人関係を築いているのだから」とあぐらをかいていましたが、とんでもなかったと思います。根拠のない自信を持つな、と自分を蹴飛ばしたい気持ちに駆られました。
いい歳になると、もう誰も「あなたのその態度、微妙ですよ」とは言ってくれません。マイナスに働くクセがあっても指摘してくれません。口にしたり注意したりすることで、相手との関係性を損ねたり、恨まれたりすると嫌ですから。
だからこそ、日常とは違う、こういった自分の現在地を知る場所に出て行くことが必要だなとも感じています。ずいぶんと大人ではありますが、むしろ今気づいてよかったなとも思います。
自分を過信せず、自己流でやってきたことをリセットして、良い方法を取り入れて、練習し続けて、無意識に行えるようになることを目指す。不要なプライドやよく見られたい意識は捨て去ります。
そんな姿勢で生きていたら、自分はもっと良い人間になれると信じて、続けるのみです。
Text / 池田園子
【関連本】『自分を愛し胸を張って生きる 瀬戸内寂聴の言葉』
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