かつてプロレスや相撲に夢中になり、いわゆる「推し」といえる選手を応援していました。始まりは2016年5月、生まれて初めてプロレス(DDT)を見に行った日。
プロレスでは、都内の大小さまざまな箱で行われる大会はもちろん、ときには遠方へ旅を兼ねて遠征までして、声を出して応援すること。
相撲では、本場所や巡業のみならず、後援会に入ってパーティやイベントに行くこと。
それらが私にとって「推し活」といえるものでした。そのほか、関連書籍やグッズも適度に買います。
しかし、コロナ下で声援が禁止され、マスク着用が必須となったことで、自分なりの楽しみ方が大きく制限されることに。健康な状態であってもマスクを強要される非科学的かつ不合理な状況が苦痛でなりませんでした。
「私は元気に声援して楽しみたい。好きな選手の名前を呼びたい。でも、それが叶わないなら、行っても自分の心は楽しくないし、満たされない。そんな状態で観戦に行く意味はあるかな? ないよね。私の“一番のパートナー”は自分自身。自分の心身を最優先に生きている。そこまで大事にしている自分が、会場でダークな気持ちになるなら、観戦に行くのはやめよう」
そう考えて距離を置くようになり、現地観戦をやめた結果、いつしか推しが消えた生活になりました。
昔から特定の対象に深く、長くのめり込むタイプではありません。小中学生の頃、ジャニーズタレント数人を順に好きになったものの、ファンクラブに入るほどではなく、雑誌を買ったり、都会に行くチャンスがあればジャニーズショップで買い物をしたりする程度。ジャニーズタレントたちも数年経つと頭と心の中から消えていましたし。
そんなわけで、推しがいない状態になっても、物足りなさを感じることはないんです(かつて推しであり、今も「表現者として好きだな」と思える選手の動向をSNSでチェックできる点も大きいと思います)。
しかし、数ヶ月前、新たな推しができました。飯塚高校サッカー部です。飯塚高校の仕事をしているご縁で、サッカー部のコンテンツ制作や発信も一部支援するようになってから、彼らをより深く知る中で、応援する気持ちが芽生えました。
試合がライブ配信されるときは自宅PCで試合を観戦し、活躍に一喜一憂するようになりました。客観視すると母親的目線だなと思います。選手たちは10代後半、私は40手前。仮に20代前半で子どもを産んでいた場合、これくらいの年齢の息子がいたとしても違和感はありません。
試合をリアルタイムで見ながら歓喜したり、悲鳴をあげたり、ゴールの瞬間には「よっしゃ!」と叫んでガッツポーズ。心の躍動があります。
「ストーリーのある関係性」で「身内的」だからこそ、心がより動くのだと思います。それは格闘家の青木真也さんやプロレスラーの鈴木秀樹さんなど、一表現者として圧倒的な魅力を放ち、その表現・思考態度が好きで、連続的に仕事をさせていただいたおふたりについても同様です。
『距離思考 曖昧な関係で生きる方法』(青木真也)
私にとって推しは「いなくても生きていける」存在です。というのも、自分自身が一番の推しだから。自分の人生において主役は自分であり、大切にしたいものや伝えたいことをつくり上げ、周囲をエンパワーメントすることを目指して生きているから。
だから、推しがいない生活も十分に楽しいんです。でも、もし推したい存在がいるなら、それはそれでとても楽しい。そんなマインドでこの先も応援していきます。
Text / 池田園子
【関連本】『サッカークリニック 2025年2月号』
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