私を忘れられないNくんについて

誰しも忘れられない人がいる。

大学を卒業し3年経ったある日、携帯に知らないメアドからメールが届いた。身構えつつ開封すると、大学時代の同じゼミ生のNくんだった。

「元気? Nやけど覚えてる?」。正直、Nくんのことはあまり記憶になかった。いつも古着のトレーナーを着ていた、寡黙で背の高い子、ぐらいの印象だった。喋ったのは数回で、それも飲み会で飲み物を配るとかゼミの連絡事項を回すときとかそんなもの。文学部の創作コースに通っていたけどNくんがどんな作家を好きだったのかもどんな小説や評論を書いていたのかもまるで知らなかった。

Nくんが私に何の用事なんだろう。全然覚えてないくせに「もちろん覚えてるで」と平気で嘘を返信した。相手が誰だとしても、外面の良い私でいたいのだ。すぐに返事がきて、その内容は取り留めもないことだった。懐かしいなって、どうしてるかなって思って。みんなと連絡取ってる? まだ大阪に住んでる? メールを5往復ぐらいして、あぁこれは、とやっとわかった。

Nくん多分、私のことが好きだったんだな。

想いを告げられなかった恋は、結末を迎えていない小説だ。どこかで自分で結末を書かなければならず、それをしてしまったら最後、その先を書くことはできない。誰にだって経験があり、思い当たる相手がいるはずだ。臆病さから想いを告げられず、そうしている間に無情にも時が過ぎ、簡単には会えなくなってしまった相手。風の噂で結婚したとか子どもがいるらしいとか、そんなことを聞いては勝手に傷つく相手。ときどきどうしているか気になって、深夜のテンションで電話をかけてみたくなる、そんな相手が。

Nくんにとって私がそうだったんだろう。6通目の取り留めのないメールを見ながら、少しだけ心が痛んだ。卒業してから3年が経ってもなお私のことを忘れられなかったNくん。わかるよ、と言ってあげたいけど、私がわかるよと言う瞬間、私は私の心に小さな棘を刺したままにしている別の誰かを想っているわけで、不誠実というか、無垢な残酷さだよなと思う。Nくんのこと、わかるって言いながら、別の誰かを想ってるなんて。

相手の恋心に気づいてしまった私は、なんとなく返信するのが心苦しくなり始めた。Nくんの気持ちには応えられない。脈があると思わせてはいけないと、メールの間隔は日を追うごとに開いた。夜になればすぐに「おやすみ」と、鎖のように続くメールを断ち切ろうとした。それでも朝になれば「おはよう」とメールが来ている。どうすればいいかわからず、あえて絵文字を少なくするとか、仕事の忙しさを装うとか、その場しのぎの冷酷さと優しさが合わさったような返事を繰り返した。ある日、そんな私を切り裂くような、最終通告のようなメールが届いた。

「山本さん、一回会われへん?」

そうだよなぁ、そうなるよなぁ。休日、寝起きのベッドの中で読んだそのメールに、自分の立ち振る舞いの下手さを思って、自分にがっかりした。

誠実な人なら、ちゃんと会って、想いを受け止めて、未練を残さないようきちんと振ってあげるんだろうか。私は人が傷つくのを見るのが怖い。傷つけるとわかっていながらその場へ行く選択を余儀なくされること、そのとき働く「人の想いにはちゃんと向き合わないといけない」という正義の力学、そんなものが全部怖いし、嫌いだ。何を言われるかわかっていながら、そしらぬ顔をして会いに行き、募った想いに耳を傾け、「全然気づかなかった」と白々しさを装って、好きになってくれてありがとうなんて言ったりして、それなのに周到に準備してきた拒絶の言葉を並べて振る。なんだその茶番は。人を傷つけることがわかっている、そんな会合には行きたくない。好意を持ってもらいながら最低だと人は責めるかもしれないけど、もらった想いに応えることができないくせにその場にのこのこ現れる方が不誠実だと思ったのだ。

逃げようと思った。「ごめん、最近忙しくて、時間作るの難しいかも」。それでもNくんは引き下がらなかった。来週でも、再来週でもいいと言う。3年も想いを募らせたのだから当然だ。「先はまだわからんかも」「申し訳ないねんけど」。数分でもいい、会社終わりに、山本さんの職場の近くで会うのは無理かな。学生時代の静かな印象とは全く違う、何かを決意し何かに突き動かされているNくんがそこにいた。私は折れるような形で「電話だったら」とやむなく譲歩した。私にできる精一杯だった。

「電話じゃなく、会って話したい」。

嘘だろ。めっちゃ本気やん。私のことがそこまで好きだったのなら、どうか私をわかってほしいし、察してほしかった。これまで自分が送ったメールを改めて確認した。どこにも脈は感じない文面だし、適度に冷淡だったはずなのに。それとも、私が間違っているのだろうか。やはり、本気の人には誠意を持って対応しなければいけないんだろうか。

いや、違う。どう考えても不誠実だ。ひどいと言われてもいい、私は意を決して返事した。できる限りの誠意を込めて。たとえ会わなくても、私たちは言葉を介し、想いを伝え合えるはずだ。私は悩み抜き、多少の嘘を盛り込みながら、Nくんが私を忘れる祈りを込めたメールをしたためた。

「Nくんの気持ちは気づいてるよ。卒業しても好きでいてくれてありがとう。けど、私、今は本気でこの仕事頑張りたいし、実はずっと好きな人がいてて、他の人のことは全く考えられへん。だからNくんとも付き合ったりできひん。ほんまは会って言うべきなんやろうけど、本当にごめん」

Nくんから返事はなかった。送ってからやっと、胸の中に冷たい後悔が広がった。本当にこれで良かったのだろうか。私のことを忘れないでいてくれた人に、たった1日付き合うことができない私。それにさっき、何て思った? 彼の告白を茶番だと思わなかったか? いったい私は人の感情を何だと思っているのか。自分の高慢さにドン引きしながらも、それでも私はそういう人なのだしとしょうがなく思った。それに、これでNくんはきっと私に失望し、容易に想いを断ち切れるはずだ。私だけが後味が悪いけれど、きっとこれは黙って耐えるしかないものだ。そんなことを思っていると、携帯が震えた。

「ごめん山本さん、会いたかったのは仕事の話」

スクロールすると、その下にマルチ商法で知られる会社のリンク先が貼られていて、「化粧水に興味ない?」と聞かれた。「すごい女性人気が高いから、山本さんも気に入ると思う。まずは現物見て試してほしくて」。私は彼からのメールを三度ほど見返し、羞恥で泣きそうになりながら、過去に届いたNくんからのメールをさかのぼった。よく読めば、どのメールにも好意なんて滲んでなかった。叫び出したいほどの感情を押し込めて、届いたメールを片っ端から一つ残らず削除して、最後に彼のメアドをブロックし肩で息をした休日土曜日の昼下がり。Nくんにはその後、二度と会っていない。

Text / 山本莉会

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