時々、無性に孤独な気持ちになることがある。
言いたいことがうまく伝わらなかったとき。みんなが何事もなく後ろに流した一瞬の感情を、自分だけが最後まで手放せなかった日。大きな歯車の中に入れられて、自分の意思や意見を求められることなく進んでいるなと感じた瞬間。
大体は疲れているのだ。体が疲れているのは一番いけない。眠たいのもいけない。よく寝て、程よく元気なのが一番いいことぐらいわかってる。だけど人間なのだから、いくら体をいたわっても拭いきれないものはある。
そんなときは、上を見るようにしている。きれいな空に目を細めているのでも、上を向いて歩こうとしているのでもない。絡まるように雑多な、頭上の電線を見ているのだ。電気はすごい。電線はもっとすごい。途切れることなくずっとつながっている。
東京に電灯が普及したのは1912年のことらしい。たった百年余りのことで、それより前の東京は真っ暗だったのだ。町から外れた途端、真っ暗になった砂利道をいく羽目になったり、月の明かりを頼りに心もとなく帰路についたりしたのかもしれない。それは孤独だ。糸を切られた凧のような、波止場のロープを断ち切られた船のような、居心地の悪い、不安の付きまとう類の孤独だ。誰ともつながっておらず、私をつなぎ止めるものがない。それは自由な一方でとても不自由なことでもある。だから、誰かとつながっている安心感を、できるだけ唯物的に確かめたいのだ。
電線をじっくり見たことはあるだろうか。どこからかやってきて、見えない場所まで延々と、ずっと続いている。何本も走っているのだから、きっと電気以外にもインターネット回線とか何かが走っているのだろう。辿っていくと細い引込線に分岐して、各々の家、マンション、店舗へつながっていく。いくつもの個人宅に分岐しながら、それでも電線が途切れることはない。そうして自分の家に着いたとき、私は自分の家にも確かに電線がつながっていることを知る。
人は簡単に孤独に落ちる。本当の意味で一人ぼっちの気分になれば、たやすく絶望的な気持ちになる。誰かにわかってほしいとき、ただ「悲しい」と言えばいいのに、卑屈になって妙なことを口走ったり、攻撃的になって誰かを傷つけたりしてしまう。愚かだ。この愚かさを愛しいと言ってくれる人がいないのなら、また一層深いところに潜って愚かさを重ねてしまう。
だから今日も私は、電線を見ている。電線を見て、私は一人じゃないと思う。少なくとも、同じ言葉を話し、同じ通貨を使い、同じ電気を共有している。それ以上何を望むことがあるんだろう。そんなふうに自分を騙しながら、私は今日も電線を見上げている。
Text / 山本莉会
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