先日受けた取材で、「理想とする生活」について尋ねられる機会がありました。
インタビュアーの方がご自身の親しい知人を例に話してくれました。その方は、すでに素敵なインテリアや器を揃えているものの、さらに理想の暮らしに近づけていきたいと考えているそうです。
私には欲しいモノがないためか、「理想を実現するために、手に入れたいモノがある。そのためにお金を稼いでいる、ともいえますね」といった言葉が心に残りました。
そのお話のあと、「園子さんはどうですか? もっとこうしていきたい、こうなりたいという理想はありますか?」と問いかけられました。器の話が出ていたこともあり、「あえて器というカテゴリに絞ってお話ししますね」と前置きして、こう答えました。
「いま持っている器で、十分満たされています」と。
器が壊れない限り、新たに買い足すつもりはありません。たとえ洗練された器を買える余裕があったとしても、あえて新調しようとは思わないのです。理想の器というのも、特に思い浮かびません。
私がいま使っている器は、自分で選んでひとり暮らしのときに使ってきた器と、パートナーのTAROが持っていた器を合わせたモノ。これまで、東京と大阪を1年、福岡と大阪を2年行き来する二拠点生活を送り、月に10日ほどTAROの家で一緒に過ごしてきました。さらに、その後1年数ヶ月、同じマンションの別の部屋に住みながら、ほぼ毎日ふたりで食卓を囲んできました。
TAROは、私と関わるようになった4年前から、ふたり分の器を揃えてくれていました。基本的にはニトリなどで購入した、リーズナブルな器たちです。私はというと、昔から器が好きで、12年ほど大切に使っているARABIAのパラティッシを除けば、作家ものを気分で買っては手放すという時期もありました。いま手元にあるのは本当に使う器だけです。
結果として、これらの器たちはブランドもタイプもバラバラで、統一感はありません。それでも、大事に使っている理由は積み重ねてきた「食の記憶」があるから。

器はシンク下収納の最下段に収まる量
たとえば、ピンクとブルーのグラタン皿。これはTAROが2021年か2022年、不意に「グラタンをつくりたい。耐熱皿なかったよね?」と100均で買ってきたものです。実際にグラタンを焼いたのは一度きりでしたが(笑)、その後もサラダや副菜を盛るのにたびたび登場しています。器そのものの価値よりも、器とともに過ごした日々や思い出のほうが、私にとってはずっと大切なのです。
人生の中で、最も長く、まとまった時間を誰かと食卓で過ごしたのは、実家での18年間です。でも、それに次ぐ食の時間を過ごしているのは、パートナーになって5年目を迎えるTAROです。いま手元にある器一つひとつが、その積み重ねを映しているように感じます。
壊れたとき、代用できなければ、新しい器を迎え入れればいい。必要が生まれたときには、それをともに選ぶ楽しみが待っています(彼は器に関心がないため、私が「私のお金で買うから」と言って強引に、自分好みの器を2セット揃えそうですが……)。たとえ器に統一感がなくても、そこにあるのは一緒に食卓を囲んできた記憶です。
「美味しい、美味しい」とだけ言って、ほとんど会話せずに黙々と食に集中する日もあれば、テーマが多く話が盛り上がる日もあれば、晩酌をして食べすぎる日もあります。そのすべてが当たり前ではなく、ありがたいと感じます。料理するための食材が手に入ることも、温かい食事ができることも、美味しいと言い合える相手がいることも。
これからも、いまある器たちとともに、豊かな食体験を重ねていきたいと思っています。
Text / 池田園子
【関連本】『持たない暮らしのすすめ』
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