タイミングに恵まれ、京都市内の著名な骨董市や蚤の市を立て続けに訪れることができました。まずは毎月25日に北野天満宮で開かれる「天神市」。自宅から徒歩3分という近さに惹かれ、TAROと散歩がてら足を運びました。
続いて5月27日、平安神宮前の岡崎公園で開催される「平安蚤の市」。こちらは自宅から6kmほど。昼休憩を兼ね、TAROと自転車で30分。天気も良く、心地よい時間を過ごせました。
(ふたつの催しについては、スタエフで話しています。興味のある方がいたら聴いていただけたらうれしいです)
それぞれの市では、骨董品やアンティークの器、古い着物や和装小物、小裂(こぎれ)とも呼ばれる古布たちがたくさん並んでいました。「あれ素敵だね」「これいいね」と会話を楽しみながら見て回る時間は豊かに感じます。
ただ、買ったモノはひとつもありません。昔の私なら、気になるモノがあれば、1〜2個はかるく買っていたでしょう。今は「家には既に使えるモノがある」と立ち止まるようになりました。「欲しいモノ」と「必要なモノ」の切り分けも瞬時にしていて、その100%が「欲しい」だけのモノでもあったからです。
もし新たに何かを迎え入れたら、今あるモノを使わなくなるか、買ったモノがハマらないかで、いずれかが稼働のないモノになるはず。稼働がなくなったモノは持っていても仕方ないので手放すわけですが、そこでまた手間暇がかかります。
また、特定の用途にしか使えないモノ――例えばかわいいけれど置物の役だけを持つ達磨――には、心惹かれてもその場で留まる冷静さを持てるようになりました。
達磨、好きなんです。でも、私は猫の達磨的な置物をひとつ、福岡・うきは市で2年前に買って、それをかなり気に入っています。だから、それが壊れるか、盗まれるかしない限り、新たな達磨を買いません。シンプルなつくりなので壊れもしないし、好む人も限られる点で盗まれもしない点で、新たな達磨を買うことは一生なさそうです。
心がけているのは、ひとつで複数の用途があるか、長く使えるかを考えて選ぶこと。仮にだだっ広い豪邸に住んでいて、展示スペースを設ける余裕があり、それを収益化できるなら話は別ですが、居住空間だけの我が家には不要。猫の達磨を毎日手に取ったり、撫でたり、手のひらで転がしたりして、十分に満たされています。だからこそ、今回魅力的な品物を眺めるだけで満足、という境地に達したのかもしれません。
骨董市の楽しみは、今の自分にとって、普段縁のないアート的なモノを目で見て、同行者との会話を楽しみ、その場の賑わう雰囲気を味わうこと。そんな私たちは商売をしている方々にとっては、1円の利益ももたらさない人でしかないと思います。ただ、それでも私は、慎重でありたい。新たにモノを持つことの意味、入口と出口に関わる責任を無闇に増やしたくない。そう考えています。
考えが堅苦しすぎる? でも、2ヶ月で300個以上のモノを捨てずに、人に譲る形で巡らせてきたときの大変さやモノを大事にしてこなかったことへの反省などを思い出すと、気軽に買うことはできないんです。人はここまで変わってしまう!
⭐️生活見直しワーク
1)店で気になるモノを見つけたとき、それが「欲しいモノ」なのか「必要なモノ」なのかを考える習慣を持ってみよう。
2)ポケットに1,000円だけ入れて買い物へ行ってみて。そのお金を使わないで、今家にあるモノで今日1日やりくりできないか考えてみよう。お金を1円も使わなければラッキー。
Text / 池田園子
【関連本】『日々、蚤の市』
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