好かれようとして生きてない

『好かれる人がやっている〇〇』というタイトルの本をときどき見かける。好かれる人の習慣、好かれる人の話し方、好かれる人が自然とやっていること。ああいうタイトルは、たぶん多くの人が気になるのだと思う。

でもあるとき、ふと気づいた。私は「人に好かれるために何かをする」という発想をあまり持っていない。そもそも、好かれたいと思って行動しているだろうか。少し考えてみたけれど、どうもそうではないらしい。

というのも、コントロールできないことを基準にしても意味がない、と思うから。人に好かれるかどうかは相手の感情による。どんなに頑張っても好かれないことはあるし、逆に特に何もしなくても好かれることもある。そこは自分の領域ではない。だから私は、そこをあまり考えていないのだと思う。

代わりに考えているのは、もう少しコントロール可能なこと。この行動は、相手にとって最善だろうか。それを考えることなら、自分でできる。

たとえば仕事。何かをつくるとき、まず依頼してくれた人のことを考える。この内容はその人や組織にとって意味があるだろうか。次に、それを受け取る人のことを考える。この情報はどんな順番で知ると理解しやすいだろうか。さらに、その情報を出す組織のことも考える。どう見せれば受け手に「あ、いい組織だな」「興味が湧いた」と思ってもらえるだろうか。この三者にとって、どういう形がいちばんいいだろうかと考えている。

これは、家の中でも同じ。家族と暮らしていると、ひとりの機嫌は家の空気に影響する。誰かがずっとイライラしていると、その空気は静かに広がる。逆に、楽しそうにしている人がいると、それもまた広がる。だから、家ではわりと機嫌よく過ごしている。家族のためというより、その方が家の空気が気持ちいいから。

こうして考えると、外でも内でも同じことをしている。どう思われるかではなく、どういう状態になるか。好かれるかどうかは相手の領域。でも、相手にとって最善を考えることは自分の領域だから。

Text / 池田園子

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