案外、続いている

京都に来て、ちょうど一年が経った。Taroと一緒に住みはじめてもう一年か、としみじみする。友人からは「共同生活が苦手なあなただから、その生活、すぐ終わりそう」と予言され、私自身も「そうかも(笑)」と返していたくらいだけれど、案外、続いている。

私たちはもう五年、共に生きている。ただ、その「一緒」のかたちは、いわゆる同棲とも、遠距離とも違っていた。思い返してみると、少し変わった軌跡をたどっている。

最初の一年は、私は東京に住みながら、大阪にいたTaroの家に、月に十日ほど滞在していた。三分の一だけ一緒に暮らす、という生活。それが一年続いた。

翌年からの二年間、私は福岡に拠点を移した。同じように、月の三分の一は大阪で過ごした。東京から福岡へ、距離としては少し近づいた。

さらにその後の一年半は、同じマンションの別の部屋に住んだ。毎月の移動にちょっと疲れてきて、仕事柄住む場所を変えられる私が、彼の近くに住むことにした。

七、八歩で行ける、対角線上の部屋。感性は年々図太くなっていくもので、共有部分は部屋着で堂々と歩いていた。夕ご飯は毎日、Taroの部屋で一緒に食べていた。近すぎず、遠すぎず。ドアを閉めれば一人、数歩歩けば二人、という関係。

そして今は、京都で同じ家に住んでいる。

こうして並べてみると、私たちはずいぶんと「暮らし方」を変えてきた。ひとつの形に落ち着くというより、そのときどきの状況や私自身の気分に合わせて、少しずつ調整してきた感じがある。

そもそも、ああいう暮らしができたのは、コロナ禍でリモートワークが当たり前になったことも大きい。場所に縛られなくなったことで、「一緒にいる」の定義も、ずいぶん自由になった。

振り返ってみると、Taroと過ごしてきた時間は、自分の人生の中でもかなり長い部類に入る。結婚していた頃、元夫と一緒にいた期間は、同棲も含めて三年半ほどだった。それをもう、超えている。

離婚してからというもの、誰かとここまで長い年月を重ねることはなかった。だからこそ、今こうして同じ人と暮らしが続いていることに、純粋に「すごいな」と感じる。

もちろん、何十年も連れ添う夫婦やカップルから見れば、まだまだ短いだろう。でも私にとっては、十分に長い。

自分ではあまり自覚がないつもりだけれど、私はそれなりに癖がありそうだ。冒頭の友人の予言も、たぶん見当外れではない。年齢を重ねれば、ある程度、誰しもそうなる。考え方も、生活のリズムも、簡単には変わらない。

その癖が、ちょうどよく噛み合っているのか。あるいは、噛み合わない部分を、無理に合わせようとしない距離感を保てているのか。

つかず、離れず。

別々に住むことで心地よさを保った時期もあれば、今のように同じ家で暮らす時期もある。

どれが正解だったのかは、わからない。でも、どれも間違いではなかった、とは言える。

むしろ、かたちを変えてきたからこそ、続いているのかもしれない。

暮らし方は、もっと自由でいい。こうあるべき、という正解に寄せる必要はない。結婚していればこう、同棲するならこう、という既存の型に、自分たちを押し込めなくてもいい。

人生は一度きりで、暮らし方の正解もひとつではない。試してみていいのだと思う。私たちは、たまたまその実験を、今も長く続けているだけだ。

そして今、京都での一年目を終えて、感想。この暮らしは、なかなか悪くない。

Text / 池田園子

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