京都市内を歩いていると、街角の掲示板でその写真に何度も出会いました。

顔の周りに流れ落ちる黒い髪。目を閉じた女性の顔。粗い粒子のモノクロ写真。赤い文字で「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」。
市民への連絡事項が並ぶ掲示板の中で、その一枚だけが、別の時間をまとっているように見えました。
作品は、オランダ出身の写真家アントン・コービンさんによる《Kate Bush, London, 1982》。京都の街のあちこちに貼られていたその写真は、見かけるたびに私の目を捉えて、強く焼きついていました。
その写真を撮った人の展示が、嶋臺(しまだい)ギャラリーで開かれていると知ったのは、たまたま別のイベントで出会った方が教えてくれたから。「会場でお手伝いをしているんです」と聞いて、「え、あのポスターの写真を撮った方の!?」とびっくり。偶然の縁が、足を運ぶ理由になりました。

アントン・コービンさんは、オランダ出身の写真家です。牧師の家庭に生まれ、もともとは音楽に熱中していたそうです。若い頃、街で演奏するバンドを撮影した写真が音楽雑誌に採用され、そこから雑誌の専属フォトグラファーとなり、ミュージシャンやアーティスト、文化人たちを撮り続けてきた。およそ50年にわたるキャリアの中から選ばれた写真が、100点近く展示されていました。
とても見応えのある展示でした。けれど、私の中にいちばん残ったのは、写真そのものだけではありません。会場で流れていた、15分ほどのインタビュー映像でした。
そこでコービンさんは、こんなことを話していました。スターを見上げない。同じ視点を持つようにしている。
正確な言葉は少し違うかもしれません。相手を「すごすぎる人」として見上げてしまうと、その人を本当に生かす写真は撮れなくなる。だから、同じ目線で見る。同じ場所に立つ。
これは写真だけの話ではない。私を含む、あらゆる人の仕事にも、そのまま置き換えられることでした。話を聞く相手や、一緒に仕事をする相手に対して、「この人はすごすぎる」と思いすぎると、こちらが萎縮してしまう。遠慮が生まれる。必要な問いも、必要な提案も、飲み込んでしまう。
敬意を持つことと、見上げることは違います。
相手をまっすぐ見て、同じ高さから話す。その姿勢がなければ、相手の本当の魅力も、こちらの役割も、十分には引き出せない。
もうひとつ立ち止まったのは、コービンさんの撮影のあり方です。
彼の写真は、粒子の粗いモノクロや、暗がりを生かした構図で語られることが多いそうです。でも本人は、特別なものを使うというより、その場にある光を使う、三脚を使わない、いま目の前にある条件の中で撮る、というようなことを話していました。
それを聞いたとき、少し禅のようだと思いました。
理想の環境が整っていないからできない、ではない。道具が足りないからできない、ではない。光があるなら、その光を使う。場所があるなら、その場所を使う。与えられた条件の中で、自分のベストを尽くす。
それは、どんな環境に行っても淡々と、自分の役割を全うするということです。
仕事でも、生活でも、条件が完璧に整うことはほとんどありません。もっと時間があれば。もっと予算があれば。もっと準備ができていれば。そう思う場面はいくらでもあります。でも、そのたびに立ち止まっていたら、何も生まれない。
いまあるものを見て、それをどう生かすか。その姿勢こそが、創作にも仕事にも、生き方にもつながっている気がしました。
そして、もう一度書き留めておきたい言葉があります。
不完全であることが、人間らしさであり、魅力である。
人は機械ではない。ロボットではない。整いすぎていないからこそ、その人らしさが出る。完璧ではない部分に、体温が宿る。
この言葉に、少しホッとしたのでした。
誰もがパーフェクトに近いものを作れる時代です。それでも、不完全さは魅力として残る。揺らぎやにじみこそが、味わいになる。そこを生かしていきたいと、素直に思えました。
不完全さは、欠点ではなく、余白なのかもしれません。その人がその人であるための、ゆらぎ。にじみ。人間らしさ。
写真を見たはずなのに、受け取ったのは「では、自分はどう生きるのか」「どう仕事をするのか」という問いでした。
アントン・コービンさんの写真展は、私にとってそういう時間でした。写真を見るために行ったはずなのに、帰るころには、自分の立ち方が少し見えたような気がしていました。
Text / 池田園子
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