投げた問いは、自分に返ってくる

お隣さん(中欧の家族)と4月から「シェアダイアリー」を始めました。交換日記のようなものです。

お母さんと娘さんの二人は日本語を少し学びたい。私は英語に触れる機会が増える。勉強っぽくすると続かないので、ルールはほとんどありません。余裕があるときに交換する。毎回、質問をひとつ入れる。あとは、好きなことを書く。そのくらいのゆるさです。

先日、私は少し大きな質問を書きました。

「あなたの人生のテーマは何ですか?」

大きすぎたかな。まあ、いいや。同世代の彼女がどんなことを考えているのか、知りたかったのです。

彼女は「園子さんの質問に答えるのは難しいですが」と前置きしながら、返事をくれました。そして最後に、「では、あなたはどうですか?」と聞き返してくれました。

あ、やばい。人に投げた問いは、自分の元に戻ってくるとは分かっていたけど。

正直に書き始めました。「私は、今も迷っています……」

もうすぐ40歳になります。「四十にして惑わず」という言葉があります。40歳になれば迷わなくなる。どっしり構えられるようになる。なんとなく、そんな意味だと思っていました。

でも、私はまだ迷っています。どう生きるのか。何を社会に返していくのか。

だからこそ、この言葉を改めて調べてみました。すると、面白いことを知りました。孔子が生きた2500年前、「惑」という漢字はまだなく、本来は「或」だったというのです。「或」は「区切る」という意味。孔子が言ったのは、「40になって迷わなくなった」ではなく、「40になって、自分を区切らなくなった」。これまでの自意識を手放して、いろいろなことに開かれていく——そんな姿だったのだそうです。

それが後世に伝わる過程で、「或」が「惑」と転記ミスされ、意味も「迷わない確固とした自分」へと変わっていった。「不惑の40歳」は、どうやら誤訳だったようなのです。

ほう。

40歳になっても迷っていていい。むしろ、自分はこういう人間だから、ここまでしかできない。これは自分らしくない。そんなふうに自分を狭い枠に入れないこと。それこそが、孔子が本当に言いたかった「四十」の姿なのかもしれません。

この交換日記は、私がこの言葉を調べ直す機会を与えてくれました。

「四十にして惑わず」を、分かったつもりでいた。けれど、誰かに向けてこの言葉を伝えようとしたことで、私は改めてその意味を自分で確かめました。

日本語で考える。英語でどう伝えるか考える。相手に届く言葉に置き換える。そして、返ってきた言葉を読む。

それは語学の勉強でありながら、人生の勉強でもあるように感じます。

日記は、自分のためのもの。でも、誰かと分け合う日記には、自分ひとりでは触れない問いと向き合えることがあります。

相手に聞いた質問が、自分に返ってくる。何気なく書いた一文が、自分の中の迷いを照らす。調べた言葉が、思いがけず今の自分を励ましてくれる。

自分を区切らずに、問いを持ち続けること。誰かと小さく言葉を交わしながら、自分の世界を少しずつ広げていくこと。

40歳になる私は、まだ迷っています。でも、その迷いを抱えたままでも、前に進んでいい。そんなことを、隣の家との小さな交換日記が教えてくれました。

Text / 池田園子

【関連本】『三流のすすめ

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