親ではない、無関係でもない

子どもを持たない人生を選んでいます。その選択に迷いはなく、子どもが欲しいと思ったこともあまりありません。けれど、だからといって子どもが苦手なわけでも、関わりたくないわけでもないのだと、先日あらためて思いました。

きっかけは、近所の家族をランチに招いた日のことです。

その家族とは、ふだんからBible Studyで集まっていて、その流れで夕食をごちそうになることが多い。私も毎回、何かしら手土産を持っていく。そんなゆるやかな行き来のある間柄です。

そのお母さんが諸事情でしばらく家を空けていて、お父さんが子どもたちのご飯を毎食準備している。そんな話をTaroにしたところ、「じゃあ、週末にランチに呼ぶのはどう?」と言いました。一食でもうちで食べてもらえたら、少しは楽になるかもしれない。そう思って声をかけてみると、とても喜んでくれました。

当日は、その家のお父さんと子どもたち、私たちの五人で食卓を囲みました。食事を出しただけと言えばそれだけのこと。けれどお父さんは、「今日は三食用意しなくてよくて、二食で済んだ。本当に助かった」と言ってくれました。

私は親になったことがありません。休日に子どもたちの三食を準備することの大変さを、身をもって知っているわけではない。でも、大人が食べたいものと子どもが食べるものは違うし、栄養や好き嫌い、量やタイミングのこともある。自分ひとりや大人ふたりなら適当に済ませられる食事も、子どもがいればそうはいかないのだろうと想像します。「一食助かる」という言葉の重みは、私たちにもじんわり伝わってきました。

その「たった一食」を喜んでもらえたことが、私たちにはとてもうれしかったのです。

子どものひとりは私の隣に座って、時々こちらを見ながら話しかけてきました。何気ない会話なのに、その距離の近さが妙にかわいらしくて、息子がいたらこんな感じなのだろうか、と束の間のお母さん気分に。

もちろん、親になることと、近所の子と一時間ほど食卓を囲むことは、まったく違います。私は責任の外側にいて、かわいさだけを味わっている。眠れない夜も、食べてくれない日も、機嫌の悪さも、私は背負っていません。けれど、背負っていないからこそ、外部の大人として関われることもあるのかもしれません。

食事のあと、子どもたちは先に食べ終わって外へ遊びに出ていきました。残った大人三人で少し話していると、ひとりが転んで戻ってきました。膝のあたりを擦りむいたようでした。私は少し慌てて、早く洗わなければ、消毒を、と小さな事件のように受け止めましたが、お父さんは慣れた様子で、子どもは毎週のようにどこかを擦りむいているのだと笑っていました。

そうか、子どもってそういうものなのか。私にとっては出来事でも、親にとっては日々の一部なのだと、そのことすら新鮮でした。

子どもを持つ、持たない。SNSではしばしば議論になり、どちらが正しいか、豊かか、社会に貢献しているか、と比べ合うような形になりがちです。でも本当は、争う必要なんてないはずなのに。子どもを持つ人にはその人の日々があり、持たない人にはその人の日々がある。それぞれが自分の人生を生き、接点が生まれたときに、自分にできることをすればいい。

私にできたのは、たまたまその日、近所の家族をランチに招くことでした。元はTaroのナイスアイデアで、私は料理をしたのみです。それは親になることとは違うけれど、まったく無関係でいることとも違います。

それからもうひとつ、考えていること。

ランチに招くことを提案してくれたのはTaroですが、その話にすぐ「いいね」と乗れたのは、私自身が、誰かに頼ってほしいからだと思います。ふだんは私がごちそうになる側で、今度は私たちが返す番、というだけのこと。困っているなら、ちょっとくらい頼ってね、と。そして同じくらい、自分も誰かに頼れる関係をつくっていきたい。

頼ることと頼られること。そのどちらかだけでは、関係はうまく続かない気がします。「私はあなたを助けられるけれど、自分は誰にも助けを求めない」という形では、相手も気を遣ってしまう。お互いに、できるときにできることを差し出して、できないときには素直に頼る。そんな関係を少しずつ増やしていけたらいいなと思っています。

時々だからこそ、できることがある。そして、時々頼り、時々頼られる距離感だからこそ、続いていける関係もある。私は私にできる形で、近くにいる人たちとそんなふうに関わっていきます。

Text / 池田園子

【関連本】『生きることは頼ること

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