出来事から「私」を抜いてみる

最近、仏教の本をよく読んでいます。まだ入口に立ったばかりですが、読むたびに、日常の見え方が少し変わる感覚があります。

仏教では、「自我をなくすことが解脱への道である」と言われます。解脱とは、生きることが楽になり、苦しみから自由になる状態のこと。

自我とは、「私が」「私の」というような感覚です。自分に関連する思い込みや、自分と人・もの・ことを結びつける執着のことです。

先日聴きに行った、立正大学仏教学部による公開講座「行とは何か?その効能は?―現代的な観点から捉える止観-」で聞いた話が、とても腑に落ちた。

たとえば、駅で誰かにぶつかられたとき、「(私に)ぶつかってきた」と思えばイラッとします。でも、「痛い」と感じるだけだったら、怒りは生まれません。起きたことは「肩がぶつかって、痛みがあった」という事実だけ。数秒後には痛みもなくなり、忘れている。それを「私が被害を受けた」という物語に解釈したとき、痛みは怒りへと変わるのです。

ある日、パートナーのTaroが珍しく近寄りがたいオーラを出していました(私がそう感じただけです)。同じ空間にいると、なんとなく嫌な気持ちになって、でも一人になったとき、ふと気づきが生まれました。

「(私の)パートナーが不機嫌にしている」→「なんか嫌だ」と、私は感じていたのだと。

目の前にいる人が不機嫌そうにしている。それだけのことなら、別に何も感じません。でも「私の」を意識した瞬間に、心がざわつく。彼を「(私の)パートナー」と捉えるから、他者が不機嫌そうに見えることが、自分への影響として迫ってくるのです。

ここで、(私の)を外してみる。Taroは私のパートナーというより、ひとりの人間。医師としての能力を生かし、地域医療に貢献している、いわば社会の人です。人前では便宜上「(私の)パートナーです」と紹介せざるを得ないときもありますが、平時は「人」と認識するほうが適切。

誰かが不機嫌そうにしている。誰かが嫌な言い方をした。そのたびに「私に対して」「私を大切にしていない」と解釈すると、心はネガティブに寄ります。でも「不機嫌そうな人がいる」「嫌な言い方があった」と捉え直すだけで、出来事と自分の間に距離が生まれます。その距離が、心を楽にしてくれる。

自我を手放すとは、自分をなくすことではなく、自分と関わる人・もの・ことに自分を絡めすぎないようにすること。

イライラしそうなとき、悲しくなりそうなとき、その奥に「私の」という感覚が隠れていないかを見てみる。そして、できる限り、「私の」を外してみる。

ただ痛みがあった。ただ近寄りがたいと感じた人がいた。ただ期待と違うことが起きた。

そう見つめ直すだけで、心はすっと静かになります。「私の」を取り外す。それは、生きることを楽にするため、一生をかけて行う、日々の小さな練習なのだと思います。

Text / 池田園子

【関連本】『怒らないこと

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