「ありがとう」をあたためない

先日、ごみ収集員の方に、直接「ありがとうございます」と伝えることができた。

我が家のごみは戸別回収で、収集の時間は日によってまちまちだ。九時前にはもう持って行ってもらえている日もあれば、十時を過ぎても袋がそのまま残っている日もある。私は私で、午前中は仕事で室内にいたり、出かけていたりすることが多く、収集に来てくれる方と顔を合わせる機会は、これまで一度もなかった。

この家に住んで一年と二か月。朝、道路沿いにごみを置いておくだけで、毎回ごみはなくなっていた。

その日は、たまたま外出先から戻ってきて、植物に水をやっているところだった。背後で物音がして振り返ると、ちょうどトラックが停まっていた。収集員の方が、うちやご近所のごみを、手際よく回収してくれている。

「ありがとうございます!」

ようやく、その瞬間に立ち会えた。ようやく、直接お礼が言えた。

顔を見て、声に出して伝えられたことが、なんともうれしかった。すっきり、爽快。

ごみの収集がなければ、私たちの暮らしは立ち行かなくなる。それは間違いなく、生活を支える大切なインフラだ。けれど、その仕事が社会で華やかに語られることは少ない。いつもどこか、ひっそりと、裏方として営まれている。

毎週決まった日に、収集員の方がやってきて、私たちの出したごみを引き取ってくれる。その当たり前を、当たり前のまま流さずに、感謝の言葉にしておきたかった。

そして、たまたまその日、その瞬間に居合わせることができた。

この出来事から、しみじみと考えたことが二つある。

ひとつは、人はやはり一人では生きていないということ。数え切れないくらい多くの誰かの手があって、私は一日一日を生きられている。ありがたいこと。感謝を忘れてはいけない。

もうひとつは、伝えるべきだと思ったことは、その瞬間に、その人に伝えるしかないということ。

「ありがとう」をあたためておくことには、意味がない。声をかけられるときに、声をかける。伝えられるときに、伝える。それはきっと、「今を生きる」ということでもあるのだと思う。

正語(しょうご)という教えがある。正しい言葉を語るためには、いくつかの基準があるという。話すタイミングは適切か。事実か。役に立つか。柔らかく、温かい言葉か。慈しみの心から出ているか。

考えてみれば、あの朝の「ありがとうございます」は、そのすべてを満たしていたように思う。

もちろん、そんなことを意識して言葉を発したわけではない。ただ、ふと振り向いて、「今だ」と思った。今、伝えなければ、次にいつ伝えられるかわからない。だから咄嗟に声をかけた。それだけのことだった。

一年と二か月のあいだ言えなかった感謝の言葉を、ようやく届けられた朝。

それはささやかだけれど、確かな実践だった。

Text / 池田園子

【関連本】『正語〈正しい言葉:Sammā Vācā〉

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