お盆も洗う

フランス人にはベッドで朝食をとる習慣があると、何かの本で読んだことがある。主に男性が女性に朝食をつくって運ぶ文化があるとか。どれくらい一般的なのかはわからない。けれど、そういう話を聞くと、ちょっと真似してみたくなる。朝食をお盆にのせて、ベッドまで持っていく。ただそれだけのことなのに、なんとなく映画の中の暮らしみたいで楽しい。

そんな気分にあやかって、Taroの部屋にご飯を運ぶことが、ときどきあった。私が運ぶ側。甘やかしている。

とはいえ、わが家でお盆を使う機会はそれほど多くない。月に一度あるかないか。だから、お盆は私の中で、食器とは違う位置付けにあった。お皿や箸のように「使ったら当然洗うもの」ではなく、汚れが気になったら拭く、くらいのものだった。

ある日、Taroが食べ終わった食器と一緒に、お盆も流しに置いていた。

それを見たとき、「あ」と思った。そうか、お盆も洗うものなのか。

考えてみれば、ご飯を運ぶために使っているのだから、たとえ目に見える汚れがなくても、きれいにする対象であっていい。けれど、そこに意識が向いていなかった。「お盆は汚れないもの」という思い込みがあった。

そのとき同時に思い出したのが、何年も前に読んだ松浦弥太郎さんのエッセイだった。ナイフや包丁を洗うとき、刃の部分は洗うけれど、柄の部分は意外と洗っていない、というような話だった。そのとき初めて、「柄も刃と同じ感覚で洗うものなのだ」と意識した。以来、包丁の柄全体も洗うようになった。

なのに、その学びを他のものに広げてはいなかった。

包丁の柄は洗う。でも、お盆にはその発想が及んでいなかった。見えているようで、見えていない。わかっているようで、横展開できていない。暮らしの中には、こういう小さな盲点がたくさんある。

Taroがお盆を流しに置いたことは、私にとって、松浦さんの文章を読んだときと同じくらいの気づきだった。大げさに聞こえるかもしれない。けれど、暮らしの発見というのは、そういうところにある。

誰かと一緒に暮らすというのは、自分の当たり前が誰かにとっては当たり前ではないと、再確認できることでもある。自分一人では気づかない手順。自分一人では疑わない習慣。そういうものが、相手の何気ない行動によってふっと照らされる。

フランス風の朝食ごっこのために使ったお盆が、最後には「お盆も洗うものだ」と教えてくれた。それだけのことだけど、Taroと暮らしているからこそ学べたのだと思う。暮らしは、こういう小さな発見の積み重ねで更新されていく。だから毎日が楽しくて仕方ない。

Text / 池田園子

【関連本】『くらしのきほん 100の実践

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