完璧じゃなくても、慈しみは持てる

寝室の天井に、ちっちゃなイモムシがいた。

小指の爪の半分くらいしかない、本当に小さな生き物。何か悪さをしようとしているわけでもない。ただ、そこにいただけだった。

でも、そのまま夜のあいだずっと同じ部屋で一緒に過ごすのは、やっぱり怖かった。寝てる私の口の中に入ってきたらイヤだな、と思ってしまう。

部屋から出したい。そう思い、まずはストレッチポールを天井にくっつけて捕獲した。その後、その子をティッシュで包み込む。

窓を開けて、ティッシュにふっと息を吹きかけて、外に出そうとした。

ところが、その子はティッシュからなかなか降りてくれなかった。その日は雨が強く降っていた。仕方なく、ティッシュごと一階の地面に落とした。

しかし、落としたあとで、気になった。

あの子はどうなったんだろう。雨に当たって、つらい思いをしているのか。小さな体で震えていたりして。

人間が二階から一階に落ちたら、もちろん大けがをする。でも、あんなに小さなイモムシは、体重がほとんどない。体も軽くて、やわらかい。ティッシュも少しはクッションになったかもしれない。

そう考えると、人間の「落ちる」と、あの子の「落ちる」は、同じではない。大きな衝撃というより、突然目の前がゆらゆらして、場所が変わって、びっくりした。そんな感覚に近かったのかもしれない。それでも、「ごめんね」と思った。

仏教を学ぶようになってから、こういう小さな存在に、以前より着目するようになった気がする。

私は聖人君子ではない。もし今、家の中にゴキブリが出たら、ギャーッと叫びながら駆除すると思う。ゴキブリは高校生の頃、実家のキッチンで、素足で踏みつけてしまう、というアクシデントがあり、以来怖い存在。正直に言えば、ゴキブリをつかんで外に逃がすことは、私にはまだできない。だから、「すべての生き物を絶対に傷つけません」と言えるわけではない。そんなきれいな話ではない。

でも、小さな虫に対しては、たしかに自分の反応が変わった。

昔の私なら、部屋に小さな虫がいたら、深く考えずに殺していたかもしれない。なんで虫がいるの? 邪魔だ。そう思った瞬間に、命として見る前に、処理すべきものとして扱っていた気がする。

でも今は、少し立ち止まる。

この子も生きている。好きでここに来たわけではない。紛れ込んでしまったんだよね。この子も怖いんだろうな。

虫を見たときに、反射的に排除するのではなく、「どうしたら殺さずに外に出せるだろう」と考えるようになった。それは私にとって、小さいけれど大きな変化。

今回のイモムシも、私は完璧に助けられたわけではない。雨の日に外へ出してしまったし、ティッシュごと落としてしまった。もっと良い方法があったのかもしれない。

それでも、殺さなかった。外に逃がそうとした。そのあとで、「大丈夫だったかな」と気にした。そのこと自体が、前より少し成長した私なのだと思う。

仏教を学ぶというのは、目の前にいる小さな生き物に対して、「生きとし生けるもの」として思えるようになる。その一瞬が、自分の中に生まれる。私にとっては、それがとても大きい。

無理なものは無理だ、完璧な人間ではないのだから、と認めながら、それでも以前より少しだけやさしい選択をする。命を大切にするというのは、そういう小さな場面の積み重ねなのではないか。

あの小さなイモムシが、そのあとどこへ行ったのかはわからない。雨を避けて、どこかの草陰や壁際に移動できたのかもしれない。もしかしたら、厳しい夜だったかもしれない。

でも少なくとも私は、あの子のことを忘れずにいる。

部屋の天井を這っていた、小指の爪の半分ほどの小さな命。その命を前にして、私は少しだけ以前とは違う自分になっていた。

それで十分なのかはわからない。でも、そこからしか始められないのだと思う。

Text / 池田園子

【関連本】『慈悲の瞑想

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