先日、女性同士の集まりで、夫やパートナーとの喧嘩について話す機会があった。「何がきっかけで喧嘩するんですか」と尋ねると、口々に「本当にちょっとしたこと」だという声が上がる。
ある人は、夫がお風呂から出たあと、身体を丁寧に拭かないことが気になるという。パパッと簡単に拭くだけで、まだ水気が残ったままパジャマを着る。手を洗ったあとも、ろくに拭かない。
「なんで、ちゃんと拭かないの?」
そこからイライラが始まる。
また別の人は、夫が靴下などを脱いだ場所に置きっぱなしにすることが気になるという。
「なんで、こんなところに置くの?」
どちらも、始まりは「なんで」だった。
自分にとっては当たり前のことを、相手がしないのが気になるらしい。手や身体を洗ったら、水気がなくなるまで拭く。服を脱いだら、脱衣かごへ入れる。自分の中ではごく自然な生活習慣なのに、目の前の相手はそのとおりに動かない。
その落差から、「なぜ、そうしないのか」「なぜ、何度言っても直らないのか」という不満が生まれる。小さな苛立ちが積み重なり、やがて喧嘩になる。
ふ〜む。そういうところから喧嘩は始まるのか。
私は少し驚きながら、自分たちの暮らしを思い返してみた。
Taroも、ときどきリビングのテーブルの下に靴下を丸めて置いている。帰宅後、ごはんを食べる前に脱いだのだろうか。詳しいことはわからないけれど、とにかく丸っこい靴下のかたまりがそこにある。私と脱ぎ方違うなあ、どうやって脱ぐとこんなきれいな丸になるんだろう、クセがあって面白いな——そんな感想を抱く。
それを見つけても、「靴下、脱衣所に持っていって」「なんでそこで脱ぎっぱなしにしてるの」などとは言わない。私自身、食後にテーブルを拭いたり、椅子を揃えたりしながら、そのあたりを動き回っている。その流れで拾って、脱衣かごへポイッと入れるだけ。ただ、決してきれいなものではないので、親指と人差し指の先でつまんで持ち歩き、ポイしたら手を洗うけど(笑)。
だから、イライラすることもない。
私自身は、そんなところで靴下を脱がない。洗面所で手洗いうがいをした流れで脱ぐ気にはならないのかな? とは疑問に思う。でも、自分と行動が違うからといって、Taroにも同じようにしてほしいとは思わないし、強制する気はない。
人はそれぞれ、自分なりの「当たり前」を持っている。けれど、自分の当たり前が、相手にとっても当たり前だとは限らない。
相手の習慣によってこちらが大迷惑を被っているなら、もちろん話し合ったほうがいい。
先の例でいうなら、夫が身体をパパッと拭き、水気が少し残ったままパジャマを着ることは、少なくとも妻に直接の迷惑をかけているわけではない。よく分からないけど、裸でいる時間を極力減らして、一刻も早く何かを羽織らないと、落ち着かないのかもしれないし。本人がそれでよいと思っているなら、そのままパジャマを着させてあげればいいのではないか(笑)。
そんなことで険悪になるのは、なんだかもったいない。
40代に突入した今、これから先、大事な人とニコニコ楽しく暮らせる時間は、あとどれくらいあるのだろうと思うことがある。そもそも、毎日無事に帰ってくることが、奇跡なんだから。そう考えると、相手の害のない習慣をわざわざ自分の常識に合わせようとして、喧嘩を増やす必要はないように思う。
喧嘩をしたところで、よいことはひとつもない。イライラすれば、顔にも縦のシワができる。笑ってできる横のシワならチャーミングでいいけれど、眉間に縦のシワが増えたところで、全然うれしくない。
あえて「損得」とか「コスパ」で表現すると、結局、喧嘩は損でしかないし、コスパも悪い。
相手を自分の思いどおりに変えようと期待するより、「この人はこうする人なのだ」と眺めているほうが、ずっと楽に暮らせる。

靴下が落ちていれば、拾える人が拾えばいい。触りたくないなら、サッカーボールのように蹴って、脱衣かごにゴールさせればいい(笑)。
直さなくても困らないことまで、直させようとしない。
自分の「当たり前」を少し手放すだけで、二人で笑っていられる時間は、ぐんと増えるのではないだろうか。
Text / 池田園子
【関連本】『誰にも何にも期待しない』
「SAVOR LIFE」では、生活をより豊かにするためのアイデアや情報を発信しています。会員様限定のお知らせや限定コンテンツをニュースレターでお届けします。ご登録ください!


