ご近所さんが怪我をして、一カ月前から入院している。
週に一度、お見舞いを兼ねて、その方の家に届いた郵便物を病院まで届けている。高齢の方で、お身内も忙しく、そう頻繁には来られないようだ。だから私が顔を出すと、とても喜んでくださる。別のご近所さんと一緒に訪ねるにぎやかな日は、さらにうれしそうにされる。
病院は自転車で十分ほどの場所にあり、その方のポストを確認するのも、近所だからこそ難しくない。時間があるときや、どこかへ出かけるついでに立ち寄るというのは、私にとっては、負担を感じない距離と関係性の中でできることだ。

先日は、私一人でお見舞いに行った。
面会時間は十五分と限られている。いつものようにベッドのそばで話していると、同じ病室にいる高齢の女性から突然、声をかけられた。
「あとで、私にもお話を聞かせてもらえませんか?」
何のことだろう。よくわからないまま、私はいったん「わかりました」と答えた。その方は席を外し、しばらくして病室へ戻ってきた。そこで私は、先ほどの言葉の意味を尋ねてみた。
どうやら、その方は私を福祉関係の仕事をしている人だと思っていたらしい。親類はいるものの、ご自身は独居で、退院後の生活に不安を抱えていたという。私が福祉の専門職として訪ねてきたように見えたため、今後のことを相談したいと思ったのだった。
私は、この方の近所に住んでいるお友達で、福祉関係ではないんですと説明した。
そう話しながら、ひとつ気づいたことがあった。ご近所さんが週に一度お見舞いに来て、少しおしゃべりをし、郵便物を届けるというのは、今の私にとっては自然なことだったけれど、一般的にはイメージしづらいことなのかもしれない。そうした役割を担うのは家族か、福祉の仕事をしている人だと思われている。だから私は、専門職と間違えられたのだろう。
もちろん、近所付き合いがあることが良くて、ないことが悪いという話ではない。自分自身が開いているかどうかや家族との関係、暮らしてきた環境、地域のあり方は人それぞれだ。それでも、自分が高齢になったとき、近所に頼れる人がいることは、ひとつの理想だなと思った。
だからといって、将来助けてもらうために誰かと関わるわけではない。ただ、今の自分にできる範囲で近所の人とつながっておくこと。誰かが少しでも寂しくないように、できる範囲で動くこと。(「世の中の寂しさを減らす」というのは、10代の頃に孤立を深め、寂しさを抱えていた私にとって、人生のテーマのひとつだ)。そうした小さな行動が、巡り巡って、自分が年を重ねたときの暮らしにもつながっていくのかもしれない。
近所には、誰でも立ち寄れる地域のカフェがある。一杯百五十円でコーヒーやお茶を飲める場所で、午前十時から十二時半ごろまで毎日開いている。今は地域の高齢者や子どもが集まっていて、私も二〜三度訪れたことがある。そこで知り合った高齢の方とは、「今日ちょっと立ち寄ります。もし、いらっしゃったら少しおしゃべりしましょう」と連絡を取り合うこともある。
誰かの暮らしを支えるというと、専門的な知識や大きな覚悟が必要なことのように聞こえる。でも、もっとささやかでもいい。近くにいる人が少しだけ顔を見せること、十五分だけ話をすること、郵便物を届けること——それだけでも、その人を支える力になるのだろう。
将来、自分がどのように年を重ね、どんな助けを必要とするのかはわからない。それでも、近所に顔を知っている人がいて、たまに一緒にコーヒーを飲み、何かあったときには自然に気にかけ合える。そんな関係を育てていけたらいいなと思う。
Text / 池田園子
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