「あなたに、私のことなんて分かるわけがない!」
不倫相手を殺した女性が、検視官に言い捨てたセリフ。『臨場』というドラマのなかの話。
これを聞いて「確かに。その通り」と頷いた。他人は、他人のことを理解できないよね、という意味での賛同。
世の中には、(他人を)「理解するために〜〜する」「理解しなければ」「理解してもらう」「理解した」といった表現があふれている。注意深く見てみてください。けっこう多いので。
そこで私がいちいち立ち止まるのは、「他人を理解することはできない」側に立っているから。「他人は理解できない」が前提だから。
頭と心の中は見えないし、本音を話しているかも定かではない。全て打ち明けているとも限らない。
役割や立場、背負うものが違えば、見ている世界はもちろん、配慮しなくてはならない範囲や影響力だって違う。多くの場合、状況や関係性によって、言えること言えないことを出し分けるもんじゃない?
限られた情報がやりとりされる対話の中で、「理解する」「理解できた」あるいは「理解してもらう」なんて言えないなー。
「理解しようとする」「理解しようと努める」あたりが適当じゃないかな。それでも「理解」という言葉には、どこかで正解にたどり着けるはず、というニュアンスが含まれる気がする。
だからもっと言うと、理解というより(相手のことを)「知ろうとする」「つかもうとする」が、表現として近いなあと考える。「知る」も「つかむ」も、別に全部でなくていい。輪郭の一部とか、手触りのようなものが得られたら、それで十分だと思える言葉だから。
細かい、面倒くさいおばさんかもしれない(笑)。この態度こそ、老害なのか。でも、「理解する」「理解できた」と、相手のことを十分に分かっているなんて言える自信も、透視スキルもない。「理解してもらう」というように、自分のことも正確に分かってもらおうとも思わない。「私の話から、ちょっとだけつかんでくれたらうれしいな」くらいかな。
そういう違和感や逡巡なく、「理解する」「理解できる」と言う人は、「他人を理解することはできる」という側に立っていて、「他人は理解できる」が前提にある。
「そうか、“前提”の違いなんだ」と最近腑に落ちた。

ただ、「理解できる」前提だと、しんどいこともあるんじゃないかな。相手を「理解している」つもりで、勘違いやズレが判明したり、自分のことを「こんなに打ち明けているのに、なんで理解してもらえないの?」と他人を責めたりしそう。
これが「理解できない」前提だと、そういう辛さはない。「分からない。もっと教えて」と言えるし、「分かってもらえない」とイライラすることもない。「まあ、分からんよね〜。お互いいろいろ違うから、しょうがない」と済ませられる。
理解できない前提でいることは、他人とのコミュニケーションをあきらめているわけではない。
分かったつもりになって傲慢さが出てしまうのもいやだし、なんとしてでも分かってもらおうと自らの思想を押し付けたりしたくない。
だから今日も、「ちょっとだけつかめたかな」くらいの手応えを探しにいく。
Text / 池田園子
【関連本】『わかりあえないことから』
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