見慣れているだけなのかもしれない 『ラヴ上等2』を見て思ったこと

『ラヴ上等』を見ている。2カ月ほど前にシーズン1を見終え、そのまま『ラヴ上等2』へ。それが終わるとすぐ、一名の「留年」が決まり、同シーズンの第2期が始まった。え、第2期!?

これまで見てきた恋愛リアリティショーは、シーズンごとに出演者が入れ替わるものばかりだった。同じシーズンの中に第1期と第2期があり、新たな出演者たちの物語が始まる構成は、少なくとも私が見てきた番組にはなかった(留年という概念も斬新)。

『ラヴ上等2』をめぐっては、シーズン中盤からさまざまな意見があり、炎上していることも知っている。賛否両論もいろいろと目にしているが、その原因や騒動の内容について、今回は触れない。ここではあくまで、一コンテンツを見た一Netflixユーザーとして、自分が感じたことを書いてみたい。

第2期を見始めたとき、少し驚いた。第1期とは、出演者の顔立ちの印象がずいぶん違ったから。

もちろん、それぞれの顔立ちがどうやってつくられたものかは、画面を見ているだけではわからない。それでも、見ているうちにふと気づくことがあった。

ふと、「あ、私寄りだ」と思う瞬間があった。画面の中にどこか自分と重なる人を見つけたとき、思いがけずほっとしている自分に気づいた。

同時に、そう思った自分に気づいて、別のことも考えた。

私は、自分と違う傾向の顔立ちを、無意識のうちに「見慣れた美」の基準で見ていたのではないか。そしてその基準は、広告やSNSなど「画面」を通じて、いつのまにか自分の中に刷り込まれていたものなのではないか。

少し前、知人のプレゼンを聞く機会があった。その人は京都在住なのだが、少し前に仕事で東京に出張した際、タクシーの中で見た広告について、いかにも東京らしい例のひとつとして話していた。身長そのものを変えられる、という美容医療の広告だったそうだ。顔だけでなく身長までもが、お金を出せば手に入る選択肢になっている。

思えば、美容整形や美容医療そのものも、20年前と比べればずいぶん身近なものになった。以前はどこか特別な選択という空気があったけれど、今はハードルが下がり、自分を変える手段というか、選択肢のひとつになっている。

そういえば、少し前に友人と話していたときにも、似たような話になった。私も彼女も東京になじみがあるのだが、京都に住むようになってから、整形や美容医療の広告を見る機会が減った気がする、と話した。

東京にいた頃は、電車に乗れば脱毛や美容医療、整形クリニックの広告が目に入った。特に山手線の車内では、いつも何かしらの美容広告を見ていたように思う。

京都では、私は基本的に自転車で移動している。バスに乗ることも少ないし、電車にはほとんど乗らない。移動手段の違いも大きいのだろう。美容医療の広告に接する機会そのものが、東京にいた頃よりも激減している。

ここでは、整形が良いとか悪いとか、そういう話をしたいわけではない。自分が納得したうえで、もっときれいになりたい、こんなふうになりたいと思って何かを選ぶのは自由だ。

ただ、同じような傾向の顔を繰り返し見ているうちに、「このくらいきれいでいるのが普通」「こんな顔になることが理想」と思うようになってしまうこともあるのかも。

人は、見慣れたものを「普通」だと思う。そして、その基準と自分を比べ始める。広告を見るたび、SNSを開くたび、恋愛リアリティショーを見るたびに、「この人に対して私は……」と比較が発生する過程に、苦しさがあるのだと思う。

『ラヴ上等2』には、いろいろな人が出てくる。顔の造作そのものに目が行く人もいれば、笑ったときの表情に惹かれる人もいる。人の魅力は、本来そんなふうに、ひとつの基準では測れないものだと思う。

番組を見ながら私が感じたのは、誰がどんな顔をしているかということではない。日頃どんな顔や広告を目にしているかによって、自分の中の「きれい」や「普通」の基準まで、無意識のうちに変化していくのだということ。

その一方で、自分に近いと感じる人を見て、ほっとする自分もいた。

何を見続けているか。そして、どんな人たちが目の前の世界に存在しているか。それはきっと、私たちが思っている以上に、自身の目と心に影響を及ぼしている。

Text / 池田園子

【関連本】『「美しい顔」とはどんな顔か

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