三歳になったばかりの猫と暮らしている。日々、ごはんや水を用意し、うんちやおしっこを取り除き、肌や歯の手入れをする。猫が過ごす場所を整え、体調や様子を気にかける。
私は子どもを育てた経験がなく、これまで誰かの世話をする機会もなかった。だから猫の世話をしていると、「私がしてあげている」というよりも、ひとつの命を支える経験を、この子からさせてもらっているように感じる。
無事に生きてくれる限り、これから十年ほどは一緒に過ごせるのかもしれない。けれど、いつかは必ず別れが訪れる。
先日、江原啓之さんの『スピリチュアル・リナーシェ 祈るように生きる』を読んでいたら、ペットとの別れについて書かれた節があった。「ペットと過ごした時間の豊かさは本物です。大我の愛で旅立ちを見送りましょう」という内容だった。
大我の愛とは、相手の幸せを願って注ぐ愛。その反対に、自分が愛されたい、癒やされたいと願うのは「小我の愛」だという。
また本には、スピリチュアルな視点から見ると、ペットを飼うことは「ボランティアの一種」なのだと書かれていた。動物は人に育てられるなかで愛情や安心、信頼を学び、より高い霊性へと進化していく。人はその歩みを支えているのだという。
私にとって猫の世話は、これまで「ボランティア」ではなく「ケア」だった。
猫はこの家で一緒に暮らす家族の一員であり、自分だけではできないことがある。私とTaroがこの子を家に迎え入れたのだから、必要なケアをするのは迎え入れた側の当然の役目だと思ってきた。
▶️こんな本をつくりました📕『ヘアレスキャットと暮らしたい: スフィンクスとバンビーノがわかる本』
けれど本を読み、ボランティアという捉え方もいいなと感じた。この子が今世で愛情や安心、信頼を知り、よい経験を重ね、より高い霊性へと進んでいく。その歩みを支えるために、私は今、この子と一緒に暮らしている。そう考えると、毎日繰り返している世話にも、これまでとは少し違う意味が加わる気がした。
本には、一生懸命その子を慈しみ、共に過ごす時間を楽しんできたのであれば、それはペットの霊格を高める行為になると書かれていた。そしてペットが亡くなったときは、「ボランティアが完了したとき」なのだという。
その言葉を読んで、自分だったらどうだろうと、ふと考えた。猫がいなくなったら、部屋はしんとするのだろう。今は「にゃー、にゃー」と喋りかけてくる声が部屋のどこかにあって、うるさすぎるときには「ちょっと静かに」と言うこともある。通じているかどうかは分からない。
でも、いつかその声がなくなる。猫に声をかける機会そのものがなくなると思うと、その静けさを今から想像できてしまう。
もちろん、ボランティアという考え方を知ったからといって、別れが悲しくなくなるわけではない。きっと私は泣くし、猫の声も猫コーナーもなくなったがらんとした部屋で、大きな喪失感を抱えることになるだろう。
本には、別れに耐えられず、自分も一緒にあの世へ行きたいと思うほどであれば、それは愛ではなく依存だったのではないか、という指摘もあった。依存は、その子が自分のためにそばにいてくれることを求める。けれど愛は、その子がその子の命を生き切ることを願う。
いつか別れが訪れたとき、「この子を失った」とだけ考えるのではなく、「この子の一生を最期まで支えることができた」「私のボランティアを終えることができた」と思えたなら、その悲しみは少し違うものになるのかもしれない。
だからこそ、一緒にいられる今、愛情を惜しまずに注ぎたい。

ぐら(3歳オス)
外出している時間が長い日は、猫を一人ぼっちにしてしまう時間がどうしてもある。とはいえ、猫は一日に十六時間以上は寝ているらしく、ほとんど寝ているのかもしれないけど(笑)。帰ってきたら集中して遊ぶなど、暮らしのなかで無理なくバランスを取っていきたい。
この子がこの世界で安心して暮らし、楽しいことやうれしいことをたくさん経験できるようにする。今世でよい思いをし、よい記憶を重ねていけるよう努める。そして、いつか別れの日が来たら、「あなたと過ごした時間は本当に豊かだった。うちに来てくれて、ありがとう」と、大我の愛で見送る。
『スピリチュアル・リナーシェ』は、そんな在り方を決意させてくれた、貴重な読書体験になった。
Text / 池田園子
【関連本】『スピリチュアル・リナーシェ 祈るように生きる』
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