ブドウと一緒に受け取ったもの

週末、京都市内から電車で30〜40分ほどの場所へ、ブドウ狩りに出かけた。といっても、ブドウ園ではなく、今年知り合った方のご自宅敷地内に育つブドウを収穫させてもらうというもの。

その方とは、出会ってからまだそれほど長くない。何度かお話を聞き、その方が中心となって開いている場にも、何度かご一緒させてもらった。

オープンでフラットな方だと思う。私のことをまだ深く知っているわけではないだろうに、自然に心を開いて関わってくださる。

ある日、その方がSNSで「ブドウ狩りしたい方は来てください」と投稿しているのを見かけた。ブドウはもちろん、フルーツ全般が好きで、果物狩りにも興味があるので、ご連絡してエントリーした。

これまでも、ご家族や近所の方たちと収穫を楽しんできたそうで、私がうかがった日は、残っていたブドウをすべて狩る日になった。

ハサミとザルをお借りして、枝から房を一つずつ切り落としていく。高所の場合はのけぞり気味になって腕を伸ばし、低所の場合は膝を曲げて目線を下げる。パチン、パチンとハサミを動かし、切り取ったブドウをザルでキャッチする、という一連の動きが楽しかった。

「こうやって何かを収穫したり、画面から離れて身体を使ったりするのって、楽しいです」

その方に言いながら、豊かな時間だなあと感じていた。もちろん、画面に向かって仕事をすることや、そこで何かを生み出すことが、豊かではないわけではない。私にとっては、それも欠かせない仕事であり、好きな営みでもある。

ただ、日々の暮らしの中で、身体のあちこちや五感を意識して何かをする機会や、自然に直接触れる時間はほとんどない。毎朝玄関外にある植物の水やりをするときくらいじゃないか。

だから目の前にある房に手を伸ばし、ハサミを入れ、自分の手で収穫するという行為は、それだけに新鮮だった。

自然とつながる、と言うと少し大げさかもしれない。それでも、葉の間から実ったブドウを見つけ、手で触れる。そういう体験が、素直にうれしかった。

だからといって、これから一から作物を育てようとか、農業を始めようとか、簡単には言えない。何かを育て、収穫できるところまで持っていくのは、大変なことだ。貸し農園を一年借りたことがあるけれど、その大変さは身にしみて知っている。

それでも、こうした機会を分けてもらえたことが、ありがたかった。

その方は事前に、「素人が育てたブドウなので、あまり期待しないでくださいね」と言っていた。でも、いただいてみると、えーっ!と感激し、食べすぎてしまうほどおいしかった。

しかも「残っているものは全部持って帰っていいですよ」と言ってくださったので、私は厚かましくも、その言葉を文字どおり受け取り、ご近所さんや友人にも分けようと思い、大きな袋に四袋ほど持ち帰った(念のため確認すると、今年すでに飽きるくらい食べているので、遠慮なくどうぞとのことだった)。

誰かが育てたブドウを、私が収穫させてもらい、それをまた別の誰かに手渡し、喜んでもらえる。画面の中では完結しないものが、人から人へとつながっていく。そのことも、なんだかうれしかった。

今回、ブドウと一緒に受け取ったのは、その方のオープンさもあった。まだ出会って数か月の私を自然に迎え入れ、自分の場所を開き、育てたものまで惜しみなく分けてくださる。相手をよく知ってからでなければ、と身構えすぎず、まずは心を開いて接する。その姿に触れて、私もそんな人になりたいと思った。

私たちの暮らしは、これからますます画面の中へ入っていくのだと思う。仕事も、買い物も、人とのやり取りも、画面があればできることは増え続けている。それは便利だし、私自身、その恩恵を十分に受けている。

それでも、画面の外で人に会い、自然に触れ、手や体を動かす時間を、これからはもっと大切にしたい。時代の流れとは逆方向なのかもしれないと、自分でも思う。

ブドウの房にハサミを入れたときの小さな手応えや、ずっしりと重くなった袋の感触は、画面越しには得られないものだった。

Text / 池田園子

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