届かないかもしれない言葉を、それでも置く

ふと目に入った文章に、少しだけ引っかかった。

「23時過ぎに走りに行く」と書かれている。しかも、イヤホンをつけて音楽を聴きながら。

それを読んだとき、頭の中ではずいぶん乱暴な言葉が飛び交っていた。
「アホかーい」
「危ないに決まってるだろうが」

でも、それをそのまま外に出すことはできない。
正しさは、言い方を間違えると、ただのノイズになる。

相手は子どもじゃない。
自分で考えて、自分で選んでいる大人だ。
そこに「間違っているよ」と強く差し込めば、正論は一瞬で「うるさい声」に変わる。

少しだけ考えて、それでもやっぱり、言わないよりはいいと思った。
だから、言葉を選ぶ。かなり慎重に、少しへりくだるくらいに。

「余計なお世話だったら、ごめんなんだけど」

そんな前置きから始めて、イヤホンで音が遮断されること、後ろから近づく気配に気づけないこと、できるだけ具体的に、静かに伝える。

ひとつのきっかけがあった。
つい先日『償い 綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件』(山﨑裕侍)を読んだことだ。

この事件を四半世紀にわたって追い続けた著者が、加害者やその家族のその後や、事件の背景にある構造を、執念のような取材で書き続けた一冊。

「史上最悪の少年犯罪」として知られるこの事件を、「なぜ起きたのか」「その後、何が残ったのか」を、淡々と、逃げずに描いている。

本を読みながら、自分がまだ何も知らなかった頃に起きていた、あの事件のことを思い出した。

そして、同時に、自分の記憶も引きずり出される。大学生の頃のことだ。

まだ夜も深くない、18時過ぎの道を歩いていた。

気配は、なかった。
ただ気づいたときには、後ろに大きな車――バンのような車がいて、中には男が何人か乗っていた。

一度、通り過ぎたはずなのに。その車は戻ってきて、声をかけてくる。

怖くて、足が少し速くなる。
歩いているのか、走っているのか分からないくらいの速さで、ただ前に進む。

それでも、後ろにいる気配が消えない。
あのときの、逃げ場のない感じ。

イヤホンなんてしていなくても、怖いことは起こる。

だからこそ、「少しでも危険を減らす選択」をしてほしい。
そう思って、言葉を続けた。

でも、最後はこう締める。
「聞きたくなかったらスルーしてね」

ここが、いちばん大事な一行かもしれないと思う。

結局のところ、選ぶのは相手だ。
どれだけ言葉を尽くしても、受け取るかどうかは、その人の自由でしかない。
どんなに正しいことでも、受け取る側の状態が整っていなければ、届かない。

心が閉じているとき、人の言葉はただの雑音になる。
自分は正しいと強く思っているときほど、その音は、きれいに跳ね返される。

逆に、ほんの少しでも心が開いていれば、「それはそうかもしれない」と、一部だけでも受け取ることができる。
どこまで受け取るかは、その柔らかさに委ねられているのだと思う。

だから、こちらの役割は決まっている。
伝えるところまで、やる。
人は、誰かに変えられるものではない。
人は、自分でしか変われない。

それ以上踏み込むと、それはもう「相手の課題」に足を踏み入れてしまうから。

言わない優しさもあるけれど、言う責任もある。
そのちょうど真ん中あたりで、言葉を置く。

届くかどうかは、手放す。

「私は、ここまでやりました」

そうやって線を引くことは、冷たいことではなくて、関係を壊さないための知恵なのだと思う。

正しさよりも、届き方。
そして、届かなかったときに、手を離せること。

伝えるという行為は、思っているよりもずっと、技術であり、距離感の話なのだ。

Text / 池田園子

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