これこそ、しなやかな強さだなと感じた言葉があった。自分を信じている人の言葉であり、自分を愛している人の言葉であり、依存ではなく自律の上に立っている人の言葉だと思った。
「このまま別れたいと言われたら受け入れるし、やり直したいと言われたら向き合う。どちらになっても私は幸せになれるから大丈夫」。『ある編集者の主観』(小寺智子)で見かけたのは、こんな言葉だった。読んだ瞬間、すっと胸に入ってきた。
いまの私は、同じようなことを思っている。5年前からパートナー関係にあるTaroとのあいだで、自然とそう考えられるようになっていた。ただ、最初からそうだったわけではない。30歳手前で離婚したとき、相手が別れたいと言っているのに、受け入れられなかった。別居を提案し、どうにか時間を延ばそうとしていた。少し時間を置けばやり直せるのではないかと、根拠のない希望を大事に抱えてしがみついていた。「この人を失ったら、自分はもう幸せになれない」と、本気で思っていた。いま振り返ると、ずいぶん壮大な勘違いだ。
その後の恋愛でも同じだった。別れの気配を感じた瞬間、世界が少し暗くなる。冷静に受け止めることはできず、そこには明確な執着があった。相手そのものというより、「その人を失った自分」に対する不安だったのだと思う。失ったあとの自分はきっと不幸で、つらい時間が続くはずだという前提が、なぜか当たり前のようにあった。いま思うと、その確信どこから来たんだろ、という感じなのだけれど、そのときは疑いもしなかった。
でも、今は違う。別れたいと言われたら、受け入れる。「わかった」と言って終わる。なぜなら、どちらに転んでも自分は幸せでいられると、わかっているから。それは強がりではなく、前提の話。

そのうえで、その人を大切にしたいとも思っている。自分に愛をくれた人が「もうここから先は一緒にいられない」と思っているのなら、その意思を尊重するのがいちばん自然だと思う。愛をくれた人を不自由にする必要はない。
だから、終わるなら終わるでいいし、続くなら続くでいい。どちらでも、自分の幸せは揺らがない。そう思えるようになった。不思議なことに、そのほうが関係は穏やかになる。相手に過度な期待を抱かず、「失いたくない」という焦りもない。ただ、今ここにある関係を、そのまま味わえる。そして、これまでに積み重ねてきた温かな時間や思い出が消えることもない。ひとりでも、ふたりでも、幸せのかたちは少し変わる。でも、どちらでも私は幸せでいられると思える。
その感覚の延長に、どこでもやっていけるという実感がある。それはきっと、これまで愛を受け取ってきたからだ。自分は愛されてきたし、愛されるに値する存在だと、どこかでわかっている。だから大丈夫だと思える。誰といても、いなくても。この「大丈夫」という感覚こそが、あの言葉の正体なのだと思う。完成形というより、ひとつの到達点。
Text / 池田園子
【関連本】『ある編集者の主観』
「SAVOR LIFE」では、生活をより豊かにするためのアイデアや情報を発信しています。会員様限定のお知らせや限定コンテンツをニュースレターでお届けします。ご登録ください!

