「あのとき、本当はこうしたかったのに」
「でも、あの人がああだったから」
そんな言葉を、ふと耳にすることがあります。
直接、自分に向けられた言葉ではないのに、なぜか心に引っかかる。
そして思うのです。
——それって、ちょっとしんどい生き方だな、と。
誰かのせいにする。
何かのせいにする。
「私は悪くない、悪いのはあっちだ」と線を引く。
たしかに、それは一時的には楽なのかもしれません。
自分を守ることができるから。
でもその代わりに、誰かや何かを、ずっとどこかで嫌い続けることになる。
恨みや不満を、心のどこかに持ち続けながら生きることになる。
それって、やっぱり苦しくないだろうか、と思うのです。
もちろん、すべてが自分の責任だ、と言いたいわけではありません。
この世界には、理不尽なことも、たくさんあります。
もうひとつ、思うことがあります。
自分がどうありたいか。
そして、どう行動するか。
この二つは、いつだって選べる。
同じ出来事でも、あり方で意味は変わる。
同じ状況でも、行動で結果は変わる。
たとえば、道で転んだとして。
誰かに押されたわけでもないなら、それは自分の不注意です。
仕事で失敗したとして。
環境の影響はあっても、最終的に動いたのは自分です。
少し厳しいようですが、そうやって引き受けていく方が、実はずっと自由だと思うのです。
そしてもうひとつ。
私は「他責」ではなく、「他謝」で生きたいと思っています。
うまくいったことも、今のこの状況も、決して、自分ひとりの力でつくったものではない。
いろんな人との関わりや、環境や、タイミング。
そういうものが重なって、いまがある。
だからこそ、「おかげさま」として受け取りたくなるのです。
これはあくまで、私のごくプライベートな生活の範囲での話ですが。
最近、英語を話す機会が増えました。
周りに海外出身の人たちがいて、日常的に言葉を交わすようになったからです。
そのおかげで、この秋ごろの自分と比べると、拙いながらも、明らかに言葉が出やすくなっていると感じます。
勉強しようと思って机に向かうのとは違って、誰かと話したいから言葉を探す。
その繰り返しが、自分を少しずつ変えている気がします。

最近、鏡を見ると、横のしわが増えたなと思う。
縦のしわはほとんどないのに、不思議と横ばかり。
たぶん、よく笑っているから。
何気ない会話の中で、くだらないことで笑っている。毎日。
それはきっと、Taroという面白い人がそばにいるから。
一緒に過ごす時間そのものが、私の表情を変えているのだと思います。
そして、グラという猫の存在。
ただ癒されている、というだけではない気がしています。
毎日ケアをする中で、小さな変化に気づくようになったり、「生き物と暮らす」ということへの関心が、自然と深まっていったり。
自分以外の存在に意識を向ける時間が増えたことで、どこか、心の使い方そのものが変わってきたようにも感じます。
こうして振り返ると、自分の変化は、いつも誰かや何かとの関わりの中で起きている。
そしてそれは、本当は仕事でも同じで、多くの人に支えられて成り立っている。
こうして並べてみると、自分ひとりで成り立っていることなんて、ひとつもないと気づきます。
誰かのせいで生きるのか。
誰かのおかげで生きるのか。
たぶん、その違いはとても小さくて、でも人生の手触りは、大きく変わる。
どうせ同じ出来事を経験するなら、「おかげさま」で受け取ったほうが、あたたかい。
だから私は、今日も他謝でいたいと思うのです。
Text / 池田園子
【関連本】『自分の変え方』
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