うっかり出会ってしまう場所へ。

3月28日、土曜日。別の用事を済ませたあと、ふらりと立ち寄った場所があった。

きっかけは、何気なく眺めていたFacebookのイベントページだった。「置きベン」という見慣れない言葉が目に入り、なんだろうと思って開いたのが始まりだ。その日は「対話会」としてひらかれているらしい。30分くらい過ごして帰ろう、と軽い気持ちで向かった。

着いたのは、京都市上京区の歩道に面した、ある家の敷地の前。そこに、素朴なベンチが置かれていた。材木店から提供された木板と、ビールケースを組み合わせてつくられたもの。手づくりのあたたかみがある。

置きベンとは、誰でも自由に腰掛けられるベンチを、自宅の敷地などに置く活動のことだ。小畑あきらさんが始めた取り組みで、街の中にぽつんと現れる、小さな居場所。2022年のインタビューで、小畑さんはそれを「持ち運び可能な縁側」と表現していた。縁側のように、内と外の境界があいまいで、靴を脱がずに同じ空間を共有できる。入りやすいし、出やすい。その気軽さが、人を引き寄せるのだと思う。

30分で帰るつもりだった。でも気づけば、いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきて、ただ話している時間が続いていた。そこにいる人たちは、私が普段出会うことのない人たちだった。もしこの場所に来なければ、一生交わることがなかったかもしれない。偶発的な出会いというのは、こういうことを言うのだろう。

ベンチに座っていると、歩いているときよりも、知らない人とコミュニケーションが発生しやすくなる。小畑さんも「座っていると挨拶を返してくれる人が増えたり、よく通る人と会話が弾んだりする」と話していた。動いているときには生まれない関係が、座るという「静の時」を過ごすことで生まれる。たったそれだけの違いなのに、その場にはまろやかな空気が漂っていた。

お茶やお菓子もふるまわれていた。それが寄付で成り立っていると聞いて、無理なく続けるための仕組みとして自然だと感じた。大きな制度に頼らなくても、地域に小さな意味が生まれて、人の共感が重なれば続いていく。だからこの場所には、無理がない。

私は事前に少し調べて行ったから、ついあれこれ質問してしまったけれど、本来はもっと気軽に、ただ座るだけでいい場所なのだと思う。自分の敷地にベンチを置くだけで世界が少し開くのなら、やってみたくなる。制作方法はnoteにまとめられているけれど、私は根っから不器用で、木工はどうにも心もとない。だから、つくるのが得意な誰かと一緒にやれたらいいなと思っている。

翌日、嵐山エリアを自転車で走っていたときのこと。丸太町通りでふと視線を向けた先に、置きベンがあった。わあ。右京区にも広がっている。その後も、上京区の別の場所で同じようなベンチを見かけた。こんなところにあったの。昨日までは目に入らなかったものが、急に見えるようになる。一度ふれると、世界の見え方が変わる。置きベンは、もともとそこにあったのに、私が見えていなかっただけだった。

考えてみれば、特別なことは何も起きていない。ベンチがあって、人が座って、少し言葉を交わす。あるいは奇跡のような意気投合があって、大盛り上がりする。どうなるかわからない。会話の量は関係ない。ちょっとでもいい。でも、その「それだけ」の中に、気持ちがほぐれる余白がある。道端で交わす「かわいいワンちゃんですね」という一言でもいい。挨拶でもいい。そこに笑顔が生まれれば、それだけで少し生きやすくなる。

深い関係や長い対話は、その先にある。でもその前に必要なのは、きっとこういう、どうでもいいようで、どうでもよくない、ささやかなやりとりなのだと思う。

置きベンに座ったあの日、私はその入り口を、確かに味わった。

Text / 池田園子

【関連本】『セレンディピティ 点をつなぐ力

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