映画『恋愛裁判』を観てきた。
この作品は、人気急上昇中のアイドルグループ「ハッピー☆ファンファーレ」のセンター・山岡真衣の物語である。
けれどそれ以上に、これは、ひとりの女性・山岡真衣の物語だと思った。
真衣は、中学時代の同級生・間山敬と偶然再会し、恋に落ちる。
その恋が、所属事務所との契約にある「恋愛禁止条項」に抵触したことで、彼女は契約違反として、事務所から損害賠償を請求されることになる。
けれど、この映画は「アイドルが恋をした」「引退した」「裁判に発展した」という出来事の連なりだけでは終わらない。
ルールに守られ、同時に縛られている世界の内側を映し出しながら、いくつもの問いを私たちに手渡してくる。
物語は、真衣の日常から始まる。
ステージに立ち、スポットライトを浴びる彼女ではない。
私たちと同じように働き、生活している、ひとりの女性としての真衣だ。
その日常は、恋という選択をきっかけに、少しずつ形を変えていく。
そして、その先に待っているのが、裁判という非日常である。
印象に残ったのは、元アイドルでもあるマネージャーの証言だった。
法廷で、彼女はこう語る。
「アイドルは、ファンの存在があってこそ成立する。ファンは、程度の差はあれ、アイドルに恋愛感情を抱いている」
彼女自身もまた、アイドルとして活動していた当時、恋愛禁止条項を「当然のもの」として受け止めていたという。
アイドルである以上、恋愛は禁止されていて当たり前。疑問を差し挟む余地のない前提として、そこにあったのだと。
真衣は、恋を選んだ。
その結果、アイドルという華やかな職業を失うことになる。
裁判の途中、彼女は、かつて自分がいたグループが人気を増し、街中をアドトラックが走る光景を目にする。
その瞬間、真衣は街角で泣き崩れる。
その涙を見て、わたしは考えた。あれは、後悔だったのだろうか。それとも、もうそこには戻れないということを、少しずつ思い知っていく涙だったのだろうか。
下村敦史の小説『真実の檻』で読んだ言葉を思い出す。――何をして後悔するかは、自分で選べる。
それは裏を返せば、後悔しない選択もできる、ということなのかもしれない。
後悔は、誰にでも訪れる。けれど、その感情があるからこそ、人は自分の選択を振り返り、もう一度、考え直そうとするのではないだろうか。

真衣の選択は、恋を選ぶことだった。得るものがあれば、失うものもある。失うものがあれば、得るものもある。
けれど、その天秤を前にしたとき、人はいつも正しい判断ができるわけではない。
裁判という場で問われているのは、表面的にはルール違反の是非だ。
しかし、その奥には、恋とは何か。人間らしく生きるとは何か。私たちは、何を守り、何を捨てて生きているのか。そんな問いが、幾重にも重ねられている。
映画の中では、「清廉性」や「純潔性」が求められるという言葉も語られる。
矛盾を抱えながらも、アイドルになりたい人は表舞台に立ち、大人たちはビジネスを行い、社会は回っていく。
これは、アイドルの物語でも、裁判の物語でもない。自分の選択と、その先にあるものについて、立ち止まって考えさせられる映画だった。
「後悔なんてしたくない」と思っている人であっても、きっとどこかに、引っかかるものが残るはず。
なぜなら、私たちは日々、選び続けているから。そして、その選択が正解だったかどうかを決められるのは、いつだって、誰でもない自分自身しかいないのだから。
Text / 池田園子
【関連本】『恋愛裁判』
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