「やりました」では、仕事にならない。

「やりました」では、仕事にならない。そんなことを、本当の意味で理解するまでに、私は社会人になってからずいぶん時間がかかった。

仕事とは何か、と考えることがある。いろいろな考え方があると思う。ただ、私自身は、仕事とは誰かとの関係の中で生まれるものだと思っている。

たとえば、誰かができないことを代わりにやる。足りないところを補う。誰かの状況を少し前に進める。そういうやりとりの積み重ねが、仕事なのではないかと。だから、相手にとって意味のある変化が生まれていないのであれば、それはまだ仕事として成立していないとも言える。

ところが、仕事をしていると、ときどき不思議な状態に出会う。関わった痕跡はある。手を動かしたことも分かる。だが、それが本当に役に立っているのかと言われると、どうもそうではない。そんな状態。

こういうときに思うのは、「関わった」ということと、「役に立った」ということは、まったく別だということ。

仕事をしていると、「自分はここまでやりました」と言いたくなる瞬間がある。社会人になりたての頃の私は、まさにそうだった。関わったことを強く示して、「やったんです」と胸を張る。

当時の私は、言われたことを言われた通りにやって、「やりました」と報告する。それで仕事をした気になっていた気がする。今思うと、なかなかの指示待ち人間だ。成果よりも「やりました感」だけは立派に出していた。当時の先輩たちには、内心いろいろ思われていたに違いない。本当にすみません、という気持ちである。

今振り返ると、それは仕事ではなく、ただの自己主張だった。

だが、本当に大事なのは「やったか、やってないか」ではない。相手の状況は前に進んだのか。関わったことで、何か価値が生まれたのか。そこが、仕事の成果である。

そして、こういう状態の仕事には、ある共通点がある。相手の視点が抜け落ちているのだ。これを受け取る人はどう思うだろうか。これで本当に助かるのだろうか。これを渡されたとき、相手にとって意味のある変化が生まれるのだろうか。その想像がどこかで止まっている。

もちろん、人間のやることだからミスはある。細かな間違いはどこにでも起きる。でも、それと、最初から全体として成立していないものとは別の話である。

仕事とは、「自分がそこに関わった」という事実を示すことではない。相手にとって意味のある形に整え、「助かった」と思ってもらうことである。

人と人のあいだに仕事がある以上、その向こう側にいる誰かを想像する。若い頃の私には、それがまったく見えていなかった。

だからこそ今は、仕事をするとき、いつも自分に問いかけている。「これは、本当に誰かの役に立っているだろうか」と。仕事と向き合うとき、大事なのは、そういう問いを自分に持ち続けることなのだと思う。

Text / 池田園子

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