たとえ別れが来るとしても、献身的に人を好きになれるだろうか。
過去、何人かの女性と付き合ったが、10代や20代の私は傷つくことを恐れていた。裏切られたこともあれば、大事にしたいがゆえにアプローチできず、そのまま終わったこともある。自分を明け渡すことには勇気が要る。さらけ出せば出すほど、裏切られたときの精神的ダメージは大きいからだ。
20歳前後の頃、私は体重80㎏を超えていた。失恋をきっかけにメンタルのどん底を味わい、食事がのどを通らず3か月から半年で体重は60㎏ほどにまで落ちた。何も手につかず、気がつくと夕方になっている。詳細は曖昧だが、ただ「失恋した」という事実だけが強烈に残っている。
恋愛において自分を大きく見せる術はなかったが、今振り返ると、それも自分の良さだったのかもしれない。非モテだった私は(今もモテているとは思わないが)、好意を抱いた相手にさらけ出すしかなかった。その分、フラれたときのダメージは大きかったが、やがてそれを昇華する力が身についた。どうすれば納得できる恋愛ができるか、どうすれば精一杯やり切れるかを考えるようになったのだ。
フラれる傷が癒えぬうちに人間そのものをもっと知りたくなり、アドラーやサルトル、ニーチェ、さらにはブッダまで哲学書をむさぼるように読んだ。学生時代、最も嫌いだった読書を、まさか自分が進んで行うようになるとは思いもしなかった。
お互いに委ね、依存せず、時にはもたれかかり、時には分かち合う。そんな関係が本当に存在するのか、と疑う読者もいるだろう。その感覚はアドラーを読めば理解できるかもしれない。ベストセラー『嫌われる勇気』にも書かれているが、「恋愛映画は恋に落ち、成就するその瞬間までしか描かれない。だがそこはスタートラインにすぎない。本当の問題は、その後いかに関係を成熟させていくかだ」と。これは実感を伴ってうなずける言葉だ。
愛し合うふたりがまるでひとつの球体のようでありながら、依存関係ではない。現実には、多くのカップルが依存、燃え上がるだけの一時的な恋、あるいは冷え切った関係という3つの状態に陥りがちだ。
パートナーとの衝突は相手が変わっても繰り返される。衝突に向き合う覚悟がなければ、何人と付き合ってもいずれ関係は破綻する。「人と付き合うのに向いていない」と結論づける人もいるが、実際には「人と関係を築く覚悟があるかどうか」を問うべきだ。最悪の事態が訪れても、相手を、そして自分を信じ切れるかどうか。
成田悠輔さんは「コスパやタイパを考えるなら死ねばいい」と言った。しかし、現代はコスパ重視の時代。リアルな出会いよりもマッチングアプリでパートナーを探すことが一般化している。だがそこで行われるのは「スペック探し」に過ぎない。スペックが良ければ乗り換える、アプリを閉じずに次を探す――裏切りが日常となり、恋愛は「スペック競争」に矮小化されていく。

一方で、相手に心身ともに委ね、裏切られ傷つくことがあってもなお信頼を選ぶなら、その恋愛は生き方そのものとなる。他人にどう見られるかはわからないが、自分にとって誇れる生き方になるはずだ。そしてもし一度でもそのような恋愛を全うできたなら、それはかけがえのない人生の財産だと断言できる。
恋愛はスペック競争になれば結局は誰でもよい、ということになる。しかし、恋愛の根幹は唯一無二性だ。相手との出会いを邂逅と認識すればするほど、相手という存在は「入れ替え不可能」だ。その点、スペック競争は入れ替え可能。
もちろん、恋愛だけが人生ではない。しかし「人を愛する」「人を信じる」「見返りを求めない」「相手に贈与する」。これらは人間の崇高な営みである。愛とは、ただ落ちるものではない。見返りを求めればそれは愛ではなく、ストーカーに成り下がる。貢献感を持って人と生きるには、結局のところ愛しかないのだと私は感じている。
Text / Dr.Taro
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【関連本】『嫌われる勇気』
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