
本当においしいトムヤムクンを食べる機会は、人生においてそうない。
トムヤムクンはどこで食べても大体おいしい。私の運がいいだけなのか、トムヤムクンが元々持っているポテンシャルなのかわからないが、まずいトムヤムクンを食べたことがない。しかし、スープの味、具材や煮込み加減、そんな仔細な味の違いを厳格に言い表せるだろうか。私はできない、だって大体うまいから。そう思っていた。あのときまでは。
あるとき、女友達とタイを訪れた。日々の仕事に忙殺されていた私たちは、プーケットを拠点に海とマッサージと酒に明け暮れる、現実をとにかく忘れる旅がしたかった。タイのガイドブックにはトムヤムクンが大きく取り上げられていて、せっかく来たのだからと、昼夜問わず店に入るたびトムヤムクンを注文した。どこで食べてもやはり大体おいしく、味に大きな差異なんてなかった。
惰性のように食べた三度目のトムヤムクンで、私たちは「これはどういうことなのか」と、ようやく考えるに至った。おいしいけど、味が画一的すぎる。どこも酸っぱくて辛くて、味はもちろん具材に至るまで、似たり寄ったりすぎないだろうか。本当にトムヤムクンとはこういうものなのか、ガイドブックに掲載された有名店は日本ナイズドされた日本人好みの味なのではないか。要は、カリフォルニアロールを食べて寿司を食ってるつもりになっているのではないか。
本当のトムヤムクンを食べたい。しかし2010年代前半の当時は、スマホで口コミを検索したり現地の言葉を翻訳したりして店を探すことはなかった。大通りから外れた、舗装の危うい路地を歩きながら、プラスチックのカラフルな椅子が並んだ店や蝿のたかる店を覗いた。どこも暇そうで、おいしいのかどうか、そもそもトムヤムクンがメニューにあるかもわからなかった。途方に暮れてホテルに帰れば、いつもカウンターで座っている男性フロントスタッフが私たちに微笑みかけ、「楽しんでいるか」と聞いてきた。その親しみやすさに、あまりうまく喋られない英語で「私たち、おいしいトムヤムクンの店を探してるんだけど」と口にした。
そのときだった。隣で、いつも仏頂面で座っていた恰幅のいい女性フロントスタッフの目の色が変わった。私たちと男性の間に割って入った女性が、早口の英語で捲し立てる。何も聞き取れず呆気に取られていると、男性が静かに制して早口でやり返した。女性はムッとしたようにまた言い返し、男性が目を大きく見開き、眉を上げ、唾が飛びそうなほどの勢いで言葉を被せる。何が起きているのか。私たちが茫然と立ちすくんでいると、カウンター奥のカーテンを捲って、初めて見るスタッフの男性がいてもたってもいられないという様子でやってきた。地図を手にしていた。
「違う、そこじゃない」「あそこはどうか」「そんなのはダメだ」みたいな会話が断片的に聞こえた。誰も私たちのことなんて見てなかった。まだ若いからか、男性のフロントスタッフの意見は蔑ろにされているようにも見えたけど、諦めることなく食らいついていた。ホテルの入り口で、スタッフ同士が揉めているのを初めて見た。
そのときだった。一人が、アッという顔をして「No.5」と小さくこぼしたのだ。その瞬間、皆がさざなみのように「ああ、No.5」「なるほど、No.5」「違いない、No.5」「そうだNo.5」「俺たちとしたことがNo.5」「満場一致でNo.5」と繰り返し始めた。英語がろくにわからないから、半分ほどは推測である。満潮の水が引く音が聞こえた。さっきまでの荒々しさが嘘のように、女性の顔に笑顔が見えた。誰かが「No.5で決まりだ」と言った。
フロントマンの男性は自信に満ち溢れた顔で地図に指を一本立て、ホテルから一直線に繁華街の方へ指を滑らせた。私たちがまだ開拓していなかった側の繁華街だった。地図から顔を上げると、「No.5」とはにかんだ。
一体「No.5」とは何なのか。フロントマンはできたばかりの店だと言っていた。できたばかりにしてはやけに混んでいると、現地の人だらけの店の中央あたりの椅子に腰掛け、トムヤムクンを注文した。一口食べて、タイに殴られているような味がした。そのままの、剥き出しの、辛さも酸っぱさも桁違いの、しかしボウルの底から混々と湧き出すような魚介の旨み、後を引く辛さが消えたときに、中毒性にまみれ生まれる本物の味。その日まで食べていたすべてのトムヤムクンがかすみ、私たちは「これがNo.5」と衝撃を受けた。
帰国まで、何度も行った。中毒性の高い、よくわからない成分が入っていたと言われても信じそうなほどだった。十年以上の時を経て、私の口はまだ「No.5」を忘れていない。あれほどうまいトムヤムクンはなかった。もう一度、死ぬまでに。「No.5」を食べるためだけに私はあの土地へ戻りたい。
Text / 山本莉会
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