なんでも知っている友人にこんな質問をしました。
「ちゃんとしたカメラで撮られるのと、スマホで撮られるのと、鏡に映った自分は全然違って見える。何が本物なのか」
「カメラの写真はふっくらして見える。スマホの写真はほっそりして見える。鏡の中の自分が一番きれい(笑)。人から見られている自分はどれなのか。カメラに映ったときの自分がそれだったら悲しい」
友人はいつも通り誠実に答えてくれて、結論としては、人から見られている自分の姿を自分で確かめるのは難しい、ということです。
鏡を直接見たときが人から見られている自分に近いとはいえ、鏡の中の世界は左右が反転しているため、他人が見ている自分とは違っている、と。
それを聞いて、一旦は鏡に映る自分が「現実の自分」に近いと思うことにしました。
話のついでに「試着室の外に立った状態で試着室内の鏡に映る自分」や「ジムの鏡に映る自分」は現実と比べて極端にほっそりしているから「あれらは嘘鏡である」とも伝えました。
友人は「嘘鏡とは面白い言葉ですね」と笑ってくれました。私は本気で嘘鏡だと思っています。明らかに違うんですもの。
「嘘鏡」以外にも言葉を作ることがあります。たとえば「野良トマト」です。
パートナーの住む自然豊かな地域を歩いているとき、不意にトマトの匂いがするときがあり、思いついた言葉でした(※この原稿を書き終わって「野良トマト」で検索してみると、すでに「野良トマト」と言及している方が大勢いました)。
見渡してみても、そのあたりに誰かがトマトを植えている様子はありません。でも、匂いはトマト。
雑草たちの間に混ざって、野生のトマトが育っているんじゃないかとの仮説を立てました。
散歩中にふっとトマトの匂いを嗅ぎ取ったとき、「このへんに野良トマトがあるよ」と私が言うと、彼は「野良トマトってなに〜」と笑っています。
言葉を自由に作って遊び、会話の中に挟んでみる——ちょっとした笑いが生まれていいものだなと思っています。
Text / Sonoko Ikeda