他人に呪詛の言葉を投げる人へ

「人生無駄にしてるなあ。もったいないなあ」と思うことがあります。

たとえば、他人に「死ね」といった言葉や憎悪の言葉をネットに綴る人々の存在を知ったとき。

つながりのある人間だろうと、まったく縁のない著名人だろうと、他人に死んでほしい、消えてほしいなど、特定の誰かが宇宙から消滅するのを祈る瞬間は、自分にはないからです。

現実にやりとりしていると「合わない」人が出てくることはあります。

「どうしてこんな言い方をするんだろう?」「なぜこんな行動をとるんだろう?」「困った人だなあ……」「今後はもう関わりたくないなあ」

コミュニケーションをしていて、ネガティブな感情を抱くことはあります。

誰しも自分の正義があり、主義があり、やり方があるわけで、その違いが衝突し、まるく収まらないのは珍しいことではありません。

逆に、相手もそれぞれの違いから、自分と同じように「この人、なんだかなあ」と悶々と感じている可能性も。

ただ、どんなに腹が立ったからといって、それが相手の存在消滅を願うことには結びつきません。互いの人生で交わらずに生きていけばいいだけですから。

「相性が良くない」「ストレスが溜まる」と思う人とは、関わりを持たなければ、視界に入れなければ、存在しないのと同じです。両者とも心穏やかに過ごせます。

それでも関わりを持つ必要がある場合は、関わりを最小限にしつつ「まあ、こういう人だし」と期待せずに接します。

ここまでは、現実で関わる一般人の話。ここからは、現実で関わることのない著名人の話です。

相手を画面越しに見ていて憎悪や妬み嫉みの感情が湧き、呪いの言葉を書き込まずにはいられないなら、「見ないこと」が怒りを発生させない最もシンプルな方法といえます。

呪詛は文字を通してネガティブなパワーを発し、相手に突き刺さると共に、気づかぬうちに自分にも小さな棘として刺さっているものです。

発する言葉は今の自分そのもの。他人に死ねと叫ぶのは自身の存在がなくなることを祈っているようなものでもあります。

他人を攻撃し、自然と自身をも攻撃するような行為は、他人にとっては凶器、自身にとっては無駄以外の何者でもありません。

誰かの死を願う暇があるなら本を読み、映画やドラマを観て、旅に出て……と意味のある時間を過ごす方が、比べものにならないほど人生が豊かになるはずです。

他人の人生に自ら進んでコントロールされる人生を選ぶか、自分の人生を自ら主体的に生きるか。私は限りある時間を後者の人間として生きていきます。

Text / Sonoko Ikeda