大人が「習う」「学ぶ」ことの大切さ

「武道」に関するお話を聞く機会が、最近立て続けにありました。

ひとり目は「雑談会」で雑談をすることになった、コンサルタントの中司年哉さん

もう10年ほど、極真系空手道場に通っているそうです。

仕事歴を拝見すると大変なエリートで、多くの部下を持つ立場でもありますが、道場では未だに師範から注意され、自身の未熟さを感じるといいます。

そして、相手に直接攻撃を当てる極真系空手では、身体的な痛みやダメージを感じる瞬間があるからこそ、そこで生じる感情をいかにコントロールするかが、攻撃を受けた後の動作に大きく関わってきます。

怒りや恐怖心と戦うことが求められるわけです。メンタルの調整をする機会を重ねるうちに、それが実生活でも生きてくるそう。

日々の暮らしで、怒りのスイッチが入りそうになっても、ふっと冷静さを取り戻し、次の適切な行動を考える余裕を持つ。そういった切り替えが無理なくできるということなのかもしれません。

さらに、幼い子どもたちを教える側にまわる機会もあり、そこでは自分が教えているはずなのに、むしろ自分が教えられる感覚も得られるといいます。

武道といえば、小学生のときに剣道、大学生のときに合気道をしていましたが、あまりにも遠い昔の話で、そこで学んだこと、得たことを思い出せないくらいです。

そんな私でも、中司さんのお話を伺って、再確認できたことや学びがありました。

まず、年齢を重ねると、怒られる機会はぐっと減ります。注意されることすらありません。

会社役員という立場の私も、怒ってくれる人、注意してくれる人はほぼいないと言っても過言ではありません。

誰からも怒られない状態に慣れると、自分を過信したり、それゆえ人としての成長が止まったり、変化しなくなったりと、よろしくないなと思っています。

だから、あえて何かを習いに行き、怒られはしなくとも、その道のプロから教えてもらう立場を経験することで、自分のできなさを実感し、成長意欲を自然発生させることは大事だなと感じるのです。

そして、誰かに何かを教える・シェアするときは、自分自身がそれを完全に理解し、相手の状況やレベルに合わせた言語化をする必要があります。

それができていないと、うまく教える・シェアする、言い換えると相手に伝え切ることはできません。

また、教える中で「この教え方だと分かってもらえない」「この表現だと伝わる」など気づかされ、次の機会につなげる発見を自発的に得ることもできます。

中司さんとはいい話ができました。

ちなみに、ふたり目は居合道七段の方です。この方も面白いので、続きはまた別の機会に綴ることにします。

Text / Sonoko Ikeda