たぐる

みなさんは幸せですか?

なんだか怖い質問に聞こえるかもしれませんが、僕たちの中に「わたし、いま幸せです」と
即答できるひと、どのくらいいるのでしょうか。

多くの人はなにかがうまくいったことよりも、課題に集中しがちです。
うまくいかなかった結果に執着して、うまくいっていないなあと感じることも多いのではないでしょうか。

僕自身もそうで、挫折に次ぐ挫折を味わってきました。そのたびにああ~ダメダメだなぁ、つらいなぁ、とよく俯いていたんです。

例えば恋愛では、モテてこなかったし、たまにうまくいったと思えばフラれる。つまずくたびに、できること全部やったのに! キィ~~! と感情を爆発させていました。

つまずいてしばらくしても気持ちを切り替えられない質で、うまくいかなかった結果がどうしてもリフレインしてしまうのですが、ある程度時間が経つと負の感情は少しずつ和らいで、なぜうまくいかなかったかを考えるようになります。

そうなったときはしめたもの。今後同じような状況になったらどうするのか、どうしたいのかを冷静に考えられるようになります。

人生のつまずきも、仕事のつまずきも、自分にとっては「運が悪かった」で終わらせてはもったいないと思っています。なぜそう思うかといえば、学校では教えてくれない恋愛や仕事での人間関係のつまずきって、何度も同じような場面で起きるような気がしているからです。

過ちが繰り返されるなら、壁を避けるより登るが吉。例えばパートナーと喧嘩する、職場でコミュニケーションがうまくいかないときって、振り返ってみると同じ理由(似たような理由)ではありませんか?

例えば態度の悪い新人が自分の部下として職場に来たときに、相手にも原因があるからといって頭ごなしに指導と称して説教すれば相手もいい気分はしないですよね。もちろん話を聞いてくれる場合もありますが、なかなか自分の真意は伝わらないかもしれません。

新人が入ってくるたびに同じようなつまずきをするなら、次の新人がやってきたときにこうしよう! と対策を立てておけば、その先の人生において少し希望を持てそうです。

僕は20代のとき、人間関係において多くの失敗をしたと思います。でもそれを生かすことができませんでした。おそらく「自分のせいじゃない!」という感覚が強かったのでしょう。

20代後半になっても状況はあまり変わりませんでした。「あれ? また失敗した」が多くて、あるときふと「あれ? この失敗、前にも経験したな」と気づくように。

それからいろいろ人と交流を持つ中で、何か失敗をしたときはただの擦り傷だと思っても、自分と向き合って傷口を深く広げてみることで(わりとしんどいです。痛みを伴う!)つまずく前より器用になることを発見。

そうやって、自分が前進できることをちょっとずつ知っていったのでした。

幸せになるかどうかは運頼み、という考えのひともいると思います。

でも、自分がつまずいてきた人生の負の小石を集めて一段登ってみると、きっと違う景色が見えるはずです。そうすると自分の失敗がただの運頼みの成功か失敗かではなく、それとは違う素敵な景色への階段にできると思います。

一段一段失敗をかき集めて登った先には、成功確率がぐんと上がった世界があって、そこに身を置く自分がいるはずです。人生を好転させる必然が登った先にあるはず。僕はそう思います。

現在のパートナーと出会い、ああこのひとは運命のひとだなぁと感じています。一緒に過ごしていて心地よいし、距離感もちょうどいい。

なにより息苦しく感じるポイントが似ているという、属性に近い部分ももちろん素敵だとは思うのですが、このパートナーを運命のひとだと感じられるのは、自分の失敗と向き合ってきた歴史がそうさせるのだと思います。

数々のつまずきのうち、どれかが欠けていても、このひとを運命のパートナーとは思えなかった。そんな気がしています。

どのつまずきもかけがえのない失敗。そう考えると20代、30代とつまずいた小石を集めて登って、自分で手繰り寄せた現在の幸せなのかもしれません。負の遺産をプラスに転換することが人生を豊かにする一助となるのかもしれません。

「運が悪いな」。そう思うときは人生で何度もあります。でも、同じような運の悪さを経験したら、それは人生の階段の一段目なのかもしれません。

一段一段登り始めれば、運の世界を飛び出して、必然の世界に足を踏み入れていくはず。もしそうなれば、あなたは必然的な幸せを自ら手繰り寄せたのだと思います。

そうやって進んだ先には希望しかないような気になりませんか? 僕たちの未来には希望しかない。そんな気持ちで日々を過ごしていきたいです。

Text / Dr.Taro

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