距離感とはやさしさ

家族、恋人、友人、同僚……さまざまな関係性が社会にはあります。

それぞれの立場に応じて適切な距離感というのがあります。
親密な関係になればなるほど、その距離は近づいていく傾向にあります。

僕の友人でモデルさんのようなイケオジ(イケてるおじさん)がいます。
彼は若いころは、というかおそらく今もモテモテなおじさんです。
そんな彼が「パートナーとの距離感は粘膜の距離だ」と表現したことがあります。

それくらい密接な、ゼロ距離を心地よしとする関係性もあります。

この距離感というのは人それぞれで人によって違いますよね。
生まれてから思春期を経て成人して、人生のさまざまなイベントを経験することで、その人の「人に対する距離感」が少しずつ形成されていくような気がしています。

少しずつ形成、というのは少しずつ発達していくという言葉で置き換えてもいいかもしれません。おそらく思春期や若いころはどちらかというと友人やパートナーとの距離感は近め、そんな人が多いのではないでしょうか。

若いころというのは自分の物差し以外に持ち合わせていないことが多く、自分が心地よい=相手も心地よいはずと思いがち。でも、世の中にはいろんな人がいるし、「いろんな人がいる」というのは文章としては知っていても、経験としては認識できていないことも。

人にされて嫌なことはするな、と世間ではよく言われます。逆に、人からされてうれしかったことをしてあげる、と言われることもあります。この言葉を眺めてみると人の感覚は快も不快も同じだと考えている人が一定数いることが分かります。しかし、本当にそうでしょうか。

つらい、苦しい、しんどい……こういう負の感覚や感情はある程度共通しているので、
「人にされて嫌なことはしない」と決めることは、周囲の人間関係が円滑にまわる可能性が高い気がします。

しかし「人からされてうれしかったことをしてあげる」はかなりリスキーな気がしています。
東北大震災が起きたあとの被災地に、全国の小中学校から山のような千羽鶴が毎日届いたそうです。

被災地を勇気づけるために行った行動だとは思うのですが、毎日大量の折り鶴がひっきりなしにやってきて被災者がどこまで心地よく思うか。

今困っている人が折り鶴を欲することは少なくて、それよりも困っていることが現実にあって、明日食べるもの、飲み水、安全に過ごせる場所、持病の薬などなど、被災現場で足りないもの、被災者が困っているところに適量の物資や人を配置することが、被災者の喜ぶ構造です。

被災者に対する解像度の高い想像力が必要です。自分の感覚が他人の感覚と同じだと妄信する世界にいる人にはなかなか理解が難しい話なのかもしれません。

同じように心地よい距離感というのは、自分が心地良いから相手も心地よいとは限りません。やはりいろんな人がいます。

自分は心地よい、でも相手は不快に思っていた、そしてそれが発覚した→相手を不快にしていたと気づく出来事があって初めて、距離感を考えるきっかけになるような気がします。

こうして不快にさせない、でも心地よさもある距離が、人と人とが過ごす時間の流れのなかで更新されていくことが、距離感には欠かせないのです。

はじめから適切な距離をとることは難しくて、時間をかけながらゆっくり近づき、同時に相手の反応を感じ取りながら、心地よい距離感を探る必要があるのだと思います。

1年前の距離感と現在の距離感が同じであることが心地よいかどうかも、相手との関係性次第。関係性というのは生き物のように日々変わっていくものです。

そうやって自分の感覚と相手の感覚をすり合わせながらできる距離感は、一方的に決めつけて信じる距離感とは一線を画するものかもしれません。

距離感というのは相手の五感に思いを馳せることから始まるのかもしれません。適切な距離感を成り立たせる要素は、相手への興味や思いやり、優しさ、気遣いなども当てはまります。

おもんぱかる、なんて言葉はめったに聞かなくなりました。でも、相手を感じ取るこういったセンサーが、いい人間関係といい距離感を生み出す源泉なのだと思います。

Text / Dr.Taro

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