誰のために生きますか

何を間違ったか、人生相談を私にしてくれる人がいます。

人生相談は好き嫌い関係なく、自分の経験から話をさせてもらうこともありますし、本人がどうしたいかに焦点を当てて聞き役に徹することも多いです。

人間は話を聞いてほしい生き物だと分かっていても、本気で悩んでいる人からの相談は、たとえ辛辣な意見を伝えることになっても、向き合うようにしています。

ある人は結婚の希望に悩んでいて、ある人は医師で何科のドクターになるかを迷っている。

多くの人が何かに悩み、日々生きているのだから、当然そういう場面に自分が悩みを打ち明けれらることがあります。

特に結婚で失敗したことを公言したり、若いときの恋は多いが実らない経験を笑い話として話す自分には、「私の人生はここまでひどくない」というハードルの低さからか、相談を持ち掛けられることが多かったように思います。

辛辣な意見になる場合はおおよそ決まっていて、主語が自分ではないことが多かったなあと今思い返すと気づきます。

たとえば「なんで結婚したいの?」→「お母さんががね〜」「両親を安心させてあげたいんだよね〜」といった具合です。

こういうことで困っている、その理由になぜ親族であっても他人である親が主語として登場するのか。ここに一番の違和感を覚えます。

悩みを吐露する瞬間に、わりと早いタイミングで他人が主語になる場合、その悩みが解消されたとして「相談者は誰の人生を生きている?」という感覚に囚われるのは私だけでしょうか。

こう書くと「Dr.Taroって、なんて冷徹な、血も涙もない! 勉強ばっかりやってきたから人の心が分からないマッドサイエンティスト! きっとサイコパス!」と思われるかもしれません。

ですが、やっぱり自分の人生を生きてほしい気持ちは揺るぎません。「誰かのため」を否定するつもりはないですし、周囲にいる人も個人の決断で同時に幸せになることはなんの問題もないと思っています。

しかし、物事には優先順位があります。相談者の周囲より相談者が一番幸せになってほしいのです。自分のことを考え抜いた結果、決断してほしいのです。

たとえば親が結婚してほしいと思っても、結婚が自分の人生に必要なければ選ぶべきではありません。

外科医になってほしいと親が思っていても、内科医がやりたいのであれば内科に進むべきです。

なぜなら親やほかの誰かの願いを叶えて、もし自分の夢を選ばなかったら、周囲の希望を聞いて上手くいかなくなったときに、誰が納得するのでしょうか。

自分の人生に自分で責任を取る以外の選択肢があれば、あるいは人生が二度あればいいのですが、自分の人生は自分が責任をとるほかないし、人生は一度きり。

この原則を度外視して、あるいは軽視して、あらゆる選択をしているのではないですか? と問いたいのです。

主語があいまいな日本人ならではの悩み方かもしれません。そして、周囲の目が気になる社会だからかもしれません。

こういう人たちは私の周りにもたくさんいて、服装を尋ねられたときに答えに窮するんですよね。

なぜあなたはその服装をしましたか? という問いに対して「自分がしたい恰好だから」という答えがとても自然で、その人らしさが出ると考えています。

しかし、どうでしょう? そう答える人の割合は少ないかもしれません。

もちろんTPOがあって冠婚葬祭にはこの服、というのが決まっていることもありますが、よく晴れた休日の秋空の下、自分が着たい服を着ることができないとしたら、それは一体どんな理由なのでしょう。

自分らしく、替えの効かない自分、唯一無二な人生、本当にしたいことを自分を優先して行動していく。それが積み重なったら、たとえ1年という短い期間ですら、きっと現在とは全く違う世界が見えるはず。

Text / Dr.Taro

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